太田述正コラム#7302(2014.11.14)
<宗教の暴力性?(その6)>(2015.3.1公開)

 「アームストロングの世俗主義に係る狭い見解は、彼女の原理主義の説明において明白だ。
 ここでも、彼女は、それを、防御的直解主義(literalism)への退行(retreat)と見ている。
 これに対し、故ジョン・ロールズ(John Rawls)<(コラム#1699、3624、3997、4862、5394、6526)>は、より洗練された解釈(construal)を提供しており、原理主義を、強制的諸信条と諸価値を押し付けることによって良い社会を追求するものとして見ている。

⇒ここは、ロールズが正しい、と言うべきでしょう。(太田)

 それとは対照的に、多元主義な諸社会は、個々人と諸集団に自分達自身の諸信条を妨げられることなく追求することを認める、とロールズは主張する。
 グレン・ティンダー(Glenn Tinder)<(注3)>のような、米国における英国教の(episcopal)政治学者達は、法の下で、全ての宗教及び無宗教を尊重するための基盤としての、福音の中立的な(non-judgmental)愛を引用して、多元主義、従ってまた世俗主義の出現へのキリスト教の貢献を是認(endorese)した。

 (注3)マサチューセッツ大学名誉教授。
http://www.christiancentury.org/contributor/glenn-tinder

⇒英国教徒でも米国環境下ではいかに腐食してしまうかの一事例ですね。
 キリスト教の利他主義(愛)こそその病理の根源であること、また、キリスト教環境における世俗主義はリベラルキリスト教化することで危険であること、等は、太田コラム読者にとっては周知のことです。(太田)

 アームストロングのあらゆる種類の暴力を減少させるための秘訣は同情(compassion)だ。
 誰がそれに反対することができよう。
 しかし、彼女の<同情の>弁護(advocacy)は、ここでもやはり、神経<科学>的思考(neuro-think)への堕落を免れていない(suffers from lapse)。
 彼女は、我々に、いかに「仏教僧達が、この同情的瞑想に精励して我々の共感性(empathy)の導火線となる脳の諸中枢を物理的に増進させてきた」かを伝える。・・・」(D)

⇒ここは、単に、書評子が不勉強なだけです。(太田)

3 終わりに代えて

 その後、この本について、もう一つ、書評が出ている
F:http://www.theguardian.com/books/2014/oct/08/fields-of-blood-religion-history-violence-karen-armstrong-review
(10月9日アクセス)ので、その概要をご紹介し、コメントを付すことで、終わりに代えたいと思います。

 「不信人者達(infidels)への憎悪が、間違いなく、コーランの中心的メッセージだ」と『信仰の終焉(The End of Faith)』の著者であるサム・ハリス(Sam Harris)<(コラム#5284、6483、7175、7300)>は記している。
 「殉教と武力聖戦の神聖さ(sanctity)の真実性(reality)は、イスラム教の下で、イエスの復活がキリスト教の下でそうであったと同程度に<真面目な>議論の的になっている」と。
 彼は、「不信人者達及び背教者達が首を刎ねられる身の毛のよだつ映像がイスラム世界一帯のポルノの人気ある一形態になっている。
 しかし、今や、イスラム教徒達がこれらの諸真実と格闘(grapple)しなくても済むことを狙った韜晦(obfuscation)の巨大な産業が存在する」と続ける。
 ハリスは、さしずめ、カレン・アームストロングをその産業の舵取り(captain)とみなしていることだろう。
 彼女の新しい本の中で、この元尼僧は、諸刎首、諸自爆、及び、諸小数派迫害、の責任をイスラム教に帰せしめる(lay at the door of Islam)ことができる、ということを受容することを断固として拒否している。
 彼女は頭を砂に突っ込んだ弁解者なのだろうか?
 トニー・ブレア(Tony Blair)の言葉によれば、諸出来事の解釈を「殆んど片意地(wilful)と言える形で明白な共通要素を除去しようと」欲している者もその中にはいるというのだがそうだろうか?

⇒紛れもなく、この点については、ハリスやブレアが正しいわけです。(太田)

 もちろん、それは、あなたが何を明白な共通要素とみなすかにかかっている。
 仮に暴力的なイスラム主義が、政治的現象というよりは、宗教的現象であるとすれば、5世紀にレヴァントでテロ行為を行い、諸シナゴーグを破壊し、巡礼達を殺害したバルサウマ(Barsauma)<(注4)>のことを<果たしてあなたは>説明することができるのだろうか?

 (注4)ニシビス(Nisibis。現在の、トルコとシリアにまたがる、クルド人の町、ヌーサイビン(Nusaybin))に生まれ、同地における、当時の東方教会の主要指導者の一人となり、彼の指導の下で東方教会はローマの教会から離れ、ネストリア派に接近した。491年に他の僧侶に殺害されたとも伝えられる。なお、彼による破壊行為や殺人について、ウィキペディア上に言及はない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nusaybin
http://en.wikipedia.org/wiki/Barsauma

 彼は、誰あろう、<Isisの頭目でカリフを称した>アブ・バクル・アル=バグダーディ(Abu Bakr al-Baghdadi)そっくりだ。
 しかし、バルサウマは<、イスラム教徒ではなく、>キリスト教の僧侶だった。
 他方、聖戦主義者たる戦士のサラー・アド=ディン(Salah ad-Din<=Saladin=サラディン>)<(コラム#547、685、3814、4472、4922、4924、4925、6987、7073、7075)>によるところの、イスラム教徒によるエルサレムの再征服があったけれど、一人の<非戦士たる>キリスト教徒も殺されなかったし、多く<のキリスト教徒>は、<キリスト教圏び>飛び領地のティール(Tyre)<(コラム#2108、3926、5390、5396、6481)>に戻る安全な通行を認められた<ときている>。
 その、のたくった(sprawling)探索の中で、アームストロングは、教義だけでもって、共同体間の争い(strife)が生起することはない、ということを示す。
 そうではなく、それは、通常、大変動(upheaval)、及びそれに伴うところの、ひどい不平等とか公然たる迫害といった構造的抑圧の新諸形態に対する反応なのだ、と。

⇒宗教教義「だけ」で暴力的紛争が起きることは余りない、ということは確かでしょうね。(太田)

 これらの諸条件さえ存在しなければ、宗教は平和的共存を促す傾向があるのだ、と。・・・

⇒しかし、宗教が紛争を深刻化させることがあることもまた事実です。(太田)

 <そもそも、>宗教的覚醒は、一つの種類の社会からもう一つの種類の社会への速すぎる移行(transition)の症候なのだ。
 
  遊動(nomadic)から定着(settled)へ、農業(agrarian)から商業(mercantile)へ、商業から工業(industrial)へ<という遷移の・・>。

⇒自然宗教は、人間主義とコインの表裏の関係にあり、人類の出現時点まで遡りますし、農業社会への移行に伴う非人間主義化に対処すべく、枢軸の時代においては、様々な哲学や新しい宗教が生まれたことは、ご承知の通りであり、このあたりのアームストロングの主張は、評価に値しません。(太田)

 これらの諸瞬間においては、しばしば暴力がつきものだ。
 しかし、<暴力と>宗教との繋がりは相関関係であって、因果関係ではない。・・・

⇒暴力の出現は、農業社会への移行の際だったことを我々は知っています。(太田)

 我々は、フランス革命、ナポレオン諸戦争、米南北戦争、二度の阿片戦争、第一次世界大戦、アルメニア人のジェノサイド、スターリンの大粛清、第二次世界大戦、そしてホロコーストは、宗教と殆んど何の関係もなかったことを知っている。
 実際、その多くは、はっきり(explicitly)反宗教的だった。・・・

⇒ここは、アームストロングが致命的に間違っています。
 これらは、全て、キリスト教に代わるキリスト教的代替物がもたらした悲劇だったのですからね。(太田)

 しかし、それでは、Isisは何なのだ?
 神学がその諸活動の動機となっている。
 その神学はコーランに由来している。
 確かに、これは宗教的暴力だ。
 教義においてはそうだ。
 しかし、それは、安定的な共同体慣行としての本来的(original)形態において世界の多くの地域で生き残っているところの教義の粗野に突然変異したヴァージョンを代表しているのだ、と。・・・」

⇒ここも誤りです。
 イスラム教原理主義は、初期イスラムへの回帰を目指すものであり、現在、「世界の多くの地域で生き残っている」イスラム教は、初期イスラムの劣化、堕落形態だからです。(太田)

(完)