太田述正コラム#7278(2014.11.2)
<アングロサクソン文明の至上性を疑問視し始めたイギリス(その10)>(2015.2.17公開)

 世俗的かつ物質主義的な精神(ethos)でもって諸国民国家と諸工業経済を構築するという冒険に乗り出したところの、権威の古き伝統的諸源泉を失った諸社会にとって、政治的諸選択肢は多くなかった。
 「個人群と彼らの欲望群」によって構成される、これらの合理化された諸社会は、自分達自身で社会的かつ政治的なコンセンサスを構築するか、強権を振るう人間(strongman)が彼らにそれを押し付けるか、そのどちらかが必要だった。
 失敗すれば、暴力的な無政府状態に陥ることになる。
 アロンは野卑な「やればできる」論者ではなかった。
 彼の見解では、真似することができない(unrepeatable)国家的成功の短い歴史の産物であるところの、米国の個人主義は、「無制限の楽観主義をまき散らし、過去を貶め(denigrate)、それら自体が集団的統一(unity)を破壊する諸制度の採用を奨励する」というのだ。
 とはいえ、彼は、「人々を究極的自由の名前の下に最も厳格な規律に人々が服従する」ことを要求する・・その最も最近における化身が、Isis、及び、その恐怖の支配(reign of terror)を通じてユートピア的「イスラム国家」を建設する試みだ・・ところの、夥しい血を流した、フランスの革命的伝統に与することもしない。
 20世紀央に出現した数多くの国民国家群に適用されたところの、アロンの陰鬱な分析は、世界全域にわたっての資本主義と並行しての自由民主主義の急激な盛り上がり(upsurge)に関して1989年以来白日夢を見て来た者達を当惑させることができよう。
 実際、欧州の諸全体主義の興隆のはるか以前、火急を擁する国家構築と急速かつ高度の経済成長に向けての探求は、日本において個人的諸自由を不安定な(precarious)存在へと暗転(doom)させた。

⇒戦間期の日本が、1929年に始まった世界大恐慌の影響を克服するためにも、「急速かつ高度の経済成長」を目指したことは事実であるものの、「国家構築」に関しては、それを「欧米的国家への改造」と言い換えたとしても、既にその半世紀も前に達成済みであって、この書評子らが、ここで何を言っているのか定かではありません。
 この「急速かつ高度の経済成長」への着手であった高橋財政は1931年末からであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85
失敗に終わったクーデタである、五・一五事件(1932年)と二・ニ六事件(1936年)をも勘案したとしても、ロシアの10月革命(を欧州の諸全体主義の興隆にカウントするとして、それ)は、1917年でこれらよりもはるか前でした
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD
し、ムッソリーニがイタリアの首相に就任したのは1922年でやはりかなり前でした
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B
し、ヒットラーがドイツの首相に就任したのは1933年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC
でほぼ同時代であり、「欧州の諸全体主義の興隆のはるか以前」などと記す、この書評子らは、基本的な歴史年表が頭に入っていないのではないか、と揶揄したくなります。
 そもそも、満州事変が起こった1931年までに既に有事に突入していたところの、日本における、安全保障上の理由に基づく自由の制限を、自由主義の後退と切り捨てる、この書評子らの、英米史と異なった基準を日本史に適用する、二重基準的姿勢はもってのほかです。(太田)

 シンガポール、台湾、マレーシア、及び韓国は、1945年以降、繁栄している資本主義経済が、常に民主主義的諸権利の否定と両立可能であることを示すこととなった。

⇒この書評子等が、マレーシアを他の3か国と並びの「繁栄している資本主義経済」に位置づけていることへの疑問はさておき、このマレーシアとシンガポールはいまだに民主主義を達成していないのに台湾と韓国は達成したのはどうしてか・・日本による統治の有無・・について、目を逸らしているのは遺憾です。
 また、台湾、韓国が、それぞれ、戦後、長期にわたって、それぞれ、中共、北朝鮮と厳しい対峙状況にあったこと、すなわち、有事下にあったこと、もこの書評子らは直視していません。(太田)

 中共は、より最近においては、民主主義を抱懐することなく資本主義的近代性の一形態を達成した。
 トルコは、今や、定期的諸選挙とともに経済成長も享受している。
 しかし、この両国は、何10年にもわたる専制的統治とまだ縁を切るに至ってはいない。
 アナトリア半島の大衆達が政治に参画するようになったことは、現実には、エルドアンのような扇動政治家が自分自身が第二のアタチュルクであると想像することを可能にしたのだ。
 しかし、トルコは、オスマントルコ帝国の廃墟群の中から近代国家を構築することができた点で相対的には幸運であったのかもしれない。
 無秩序は、ミャンマーやパキスタンのような、不十分な、或いは、余りにも激し過ぎる、熱情でもって構想された(imagined)ところの、多数の新しい諸国家の運命となった。
 すなわち、彼らの弱い国家諸構造やばらばらの市民社会は、不満を持つ諸少数民族や宗教的諸狂信者からの挑戦を退けつつ、永続的に非軍人と軍人の暴君達の間で行きつ戻りつすることを余儀なくされた。
 アラブの春が起きるまでは、容赦なき暴君達は、オスマントルコ帝国から切り分けられた諸国民国家内における宗派間の諸敵意に蓋をし続けた。
 <しかし、>今や、イラク、リビア、及び、シリアの粉砕は、暴君制(despotism)は、戦闘的不満に対する防波堤であるどころか、そのための効果的な溶鉱炉であることを顕現させたのだ。

(続く)