太田述正コラム#7238(2014.10.13)
<宗教の暴力性?(その5)>(2015.1.28公開)

 (4)宗教の暴力性?

 「ドーキンズ-ヒッチェンス(Dawkins-Hitchens)流の、宗教的信仰を世界における悪の力であるとの弾劾(denunciation)は、9.11・・・以来、好調であり続けている。}(C)

 「<この著者>は、「宗教的暴力の神話」をもたらしたものは、啓蒙主義、及び、世俗主義の出現だった、と執拗に主張する。・・・
 宗教は、社会的・政治的諸制度から切り離され<、宗教・社会・政治的暴力性が、宗教的暴力性へと歪曲的に読み替えられ>たのだ、と。
 <ここにおいて>、信仰深き者は、最も深い確信に関わる諸事柄において防衛的立場に立つこととなり、敵対的な世俗的諸力と戦うためにすぐ入手できるあらゆる諸手法を用いることとなった。・・・
 <しかし、「信仰深き者」の代表格たるカトリック教会も、>改革的な第二バチカン公会議(Second Vatican Council)<(注2)(コラム#1020、1861、3766)>(1962〜65年)において、多大な困難を乗り越えて、宗教的自由(宗教的多元主義)の布告(decree)を打ち出し<、啓蒙主義者ないし世俗主義者の軍門に、部分的にではあれ、下ることとなっ>た。」(D)

 (注2)「1869年の第1バチカン公会議では、・・・近代・・・世界を否定するというスタンスがとられた<が、第2バチカン公会議では、>・・・カトリック教会が唯一にして聖であり、普遍的なものであること、イエスがペトロに与えた権能を引き継ぐ教皇と司教たちによって治められる組織であるといいつつ、カトリック教会以外にも聖化と真理の要素が数多く見出されると補足<するとともに、>・・・カトリック教会に属さないキリスト教徒たち、ユダヤ教徒、イスラム教徒たちも唯一の神において互いに結ばれていると<し、更に、>・・・それまで聖職者・司祭は信徒より聖性のレベルが高いとみなしてきた<ところ、>「すべての人が聖性に招かれている」と・・・した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%B3%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 「結局のところ、戦争と暴力は、常に政治的生活の一つの様相であり続けてきたわけだが、<現代欧米人たる>我々のみが、教会を国家から分離することが平和にとっての必要条件である、との<まことしやかな>結論を、そこから引き出したのだ。」(A)

 「しかし、ルター(Luther)の、1525年のドイツにおける農民戦争における、その宗教戦争の初期段階の間の対応は、世俗化された政治理論が、必ずしも平和や民主主義のための力ではないことを示唆した<、と言えよう>。
 農民達からその伝統的諸権利を剥奪したドイツの諸侯は、中央集権化諸政策に抵抗しつつあった農民達を国家の手で容赦なく殺戮した。
 ルターは、この農民達が、宗教と政治を混淆するという極めて重大な罪を冒してきた、と信じた。
 なぜなら、苦悩するのは彼らの運命であり、彼らはもう片方の頬を<打たれるために>差し出して、自分達の生命財産の喪失を受け入れなければならなかった<というのに、彼らはそうしなかった>からだ。
 「<そもそも、>地上の(wordly)王国は、若干は自由で若干は投獄され、若干は領主達(lords)で若干は家来達(subjects)であるという、人々の不平等なしでは、存続できない」と彼は執拗に主張した。
 その上で、ルターは、諸侯に対し、「叛徒ほど、毒されていて、苦痛を与え、或いは、悪魔的なものはないことを思い起こしつつ、秘密裏に、或いは公然と、それができる者は全員、打倒し(smite)、圧倒し(slay)、刺す」よう命じたのだった。」(A)

⇒プロテスタント諸教会は、カトリック教会の一定部分が同教会から分裂してできたところの、小カトリック教会群である、と私はかねてから指摘したところであり、当然のことながら、プロテスタント諸教会は、(戦争志向性を含むところの)暴力性についても、カトリック教会から受け継いでいる、ということです。
 その後、まず、プロテスタント諸教会が、そして、最近になってカトリック教会が、国家からの分離を謳うようになり、暴力性を国家のみの手に委ねさせるに至った、というわけです。(太田)

 (5)批判

 「<この著者>は、1700年頃までは、要するに、人々は、宗教的諸事項(issues)と政治的・社会的・経済的諸事項とを区別することができなかった、と述べる。
 宗教という、他から切り離されたものは存在していなかったのだ、と。
 それゆえ、何か非難すべきものとして、「宗教」<だけ>を抜き出すことは誤りなのだ、と。・・・
 <しかし、>17世紀末まで、西欧で、かかる諸区別はなかったとの<、彼女が主張しているところの、>観念の総体は、とにもかくにも、極めて疑わしいと言わざるをえない。
 中世以降、教会と国家、神学と哲学、神の(devine)法と人間の(human)法、の違いについて、長く続いた諸議論があった。
 我々の宗教的寛容の観念の起源はこれらの諸論議の中に存した。
 奇妙なことに、アームストロングによってなされるところの、宗教の防衛<に係る主張>は、啓蒙主義よりかなり前に、キリスト教的思考それ自体の中から、これらの、より、リベラルな諸展開(developments)が生まれた部分もあるというのに、その貢献度を<余りにも>矮小化している。
 <また、>現代になると、アームストロングによる、宗教の防衛<に係る主張>は、他の理由で<やはり>首を傾げざるをえなくなるように思う。
 もとより、現代聖戦主義者による侵略などというものは、時代を超えた宗教の若干の本質を代表してなどいない、かつまた、他の政治的、経済的、かつ文化的諸要素が、いかに、そして、なにゆえに諸個人が<かくも>過激化したのかについての諸物語の中に大きく蟠っている、と彼女が述べるのは疑う余地なく正しい。
 しかし、彼女が、その域を超えて、かかる暴力は、常に挑発や抑圧に対する返答(response)なのである、と示唆しているの<は問題>だ。」(C)

(続く)