太田述正コラム#7228(2014.10.8)
<宗教の暴力性?(その2)>(2015.1.23公開)

 (2)宗教の本来的全体性

 「我々は、今では、世俗国家を余りにも当たり前だと思い込んでいるため、近代期より前には、我々の言葉の感覚に合致したところの、「世俗的」諸機関(institutions)も「世俗」諸国家も存在しなかったことを飲み込む(appreciate)ことが困難だ。
 これらが創造されたことに伴い、宗教に関し、近代欧米においては、それまでとは完全に異なった、独特の理解をひねり出す必要が生じた。
 他のいかなる文化においても、<宗教に関するそのような理解>にちょっとでも似ている理解はした試しがないのであって、18世紀より前には、欧州のカトリック教徒達にとってさえ、そのような理解は、およそ想像外(incomprehensible)なものであったことだろう。・・・

⇒日本では、17世紀には、既に宗教そのものが消滅していた、という見方がある(「日本の「宗教」」シリーズ(コラム#6495以下)参照)ところ、アームストロングは、ご執心の仏教を含め、世界の宗教研究にこれまでの生涯を費やしてきていて、このことを知っていてしかるべきだというのに、日本との比較で、欧米の世俗化の「遅れ」を論じる、という観点が、彼女に全く見られないことは残念です。(太田)

 実際、宗教を純粋に私的営み(pursuit)とする近代欧米基準を充足する唯一の宗派(tradition)は、プロテスタントのキリスト教であるところ、それは、我々の欧米的「宗教」観同様、近代期初期に創造されたものなのだ。・・・
 <そもそも、>近代期より前においては、宗教は、他の全てのものから密閉的に塞がれた、区別された活動ではなく、それは、経済、国家構築、政治、及び戦争等の人間の営み(undertakings)全てに充満(permeate)していたのだ。」(A)

 (3)ジョン・ロックの誤り

 「ロック(Locke)は、リベラルな国家は、カトリック教徒達とイスラム教徒達のどちらも赦(tolerate)してはならないとし、この二つ<の宗派>が政治と宗教を混同していること(confusion)は危険なほど倒錯している、と断固たる非難を行った。
 ロックは、自然諸人権の理論・・もともとはルネッサンスの人文主義者達(humanists)が先鞭をつけ、米独立宣言の最初の草案の中で、生命、自由、財産として定義を与えられた・・の主要な擁護者だった。
 しかし、世俗化は、欧州が新世界を植民地にし始めていた時に出現したところ、それは、欧米が植民された側を見る流儀に大きな影響を及ぼすこととなった。
 それは、我々自身の時代において、信仰を政治から分離することができないように見えるイスラム諸社会を、優勢であるところの(prevailing)世俗的イデオロギー<の信奉者達>が、救いようがないほど欠陥があると受け止めることと大変似ている。・・・
 <この>ロックは、原住民達は、生命、自由、或いは財産についての権利を有さないことに同意した。
 彼は、北アメリカの「<原住民の>王様達」は、自分達の領域に関して法的所有権を持たない、と布告(decree)したのだ。
 彼は、また、奴隷に対する主人(master)の「絶対的、恣意的、専制的(despotical)権限(power)」・・それには、「いつでも彼を殺害する権限」が含まれている・・を是認(endorse)した。
 <どうやら、>世俗主義の先鞭をつけた<ロックのような>人々は、彼らの宗教的先達者達と同様、古い惰性的な物の考え方(habits)に陥っていたように見える。」(A)

⇒イギリス人の中にも、例外的に、このロックのような、欧州人的なゴミ思想家もいて、こういった思想家の、自分達にとって都合のよい戯言を援用したイデオロギーでもって、米国の独立を勝ち取ったところの、できそこないのイギリス人たる米国人達が、大きい顔をして、米国人以外の人々の眉を顰ませながら、世界でのさばり、現在に至っている、といったところですね。(太田)

(続く)