太田述正コラム#7218(2014.10.3)
<新しい人類史?(その10)>(2015.1.18公開)

 「仮に、一神教の普及が全球的幸福にさほどの影響を与えなかったとすれば、一体いかなる差異をそれは作り出したのだろうか。
 個人主義の興隆と集団主義的諸イデオロギーの没落とともに、幸福は、間違いなく我々にとっての最上の価値になりつつある。・・・
 しばしば「ホイッグ的歴史観」と称されるところ、共通の先入観によれば、歴史は、進歩の勝どきをあげつつ行われる行進なのだ。・・・
 人間の力が歴史の曙以来伸び続けてきたという事実に異を唱える者は殆んどいないけれど、力が幸福と相関関係があるかどうかについては、まるではっきりしていない。・・・
 個人的幸福の観点からは、「農業革命」は、科学者のジャレド・ダイアモンド(Jared Diamond)の言葉によれば、「人間という種の歴史における最悪の間違い」だった。・・・
 最初のシュメールの都市国家群からアッシリアとバビロニアの諸帝国への進歩の行進は、女性達の社会的地位と経済的自由の着実な悪化を伴った。・・・
 ・・・<今日の>酒場での仲間達とは対照的に、石器時代の友人達は自分達の生存そのものに関して相互に依存し合っていた。
 人間達は、固く縫い合わされた諸コミュニティに住んでおり、友人達は、あなたが一緒にマンモス群を狩りに行く人々だった。
 あなた達のうちの一人が病気になれば、互いに面倒を見合い、欠乏の時々にはあなた達の食物の最後の一片群を分かち合った。
 このような友人達は、今日の多くの諸カップルよりもっと親密に互いのことを知っていた。
 このような不確かな(precarious)部族的ネットワーク群を近代的な諸経済や諸国家の安全保障でもって置き換えることは、莫大な諸有利さ(advantages)を有することは明白だ。 
 しかし、<その結果、>親密な諸関係の質と深さは、損なわれることになった可能性が大きい。
 より浅い諸関係に加えて、現代の人々は、はるかに貧しい知覚的世界に悩まされている。
 古代の狩猟採集者達(foragers)は、あらゆる音、味、そして匂いを鋭く感知しながら、現在の各瞬間に生きていた。
 彼らの生存はそれに依存していたのだ。
 彼らは、草の中のほんのわずかな動きに耳を澄ませ、蛇がそこに潜伏していないかどうかを知ろうとした。
 彼らは、果物群や鳥々の巣群を発見するために、木々の葉の様子を注意深く観察した。
 彼らは、接近しつつある危険について、風を嗅いだ。
 彼らは、最小限の努力と音でもって動き、最も俊敏で効率的な流儀で、どう座り、歩き、そして走るかを知っていた。
 そして、自分達の身体群の種々な形でのかつ恒常的な使用は、彼らに、今日では、何年もヨガか太極拳を実行しても達成することができないような、肉体的機敏さ(dexterity)を与えた。・・・
 一つの説明が、古代の智慧を最近再発見したところの、社会科学者達によって提供されてきた。
 すなわち、我々の幸福は、客観的諸条件よりも、はるかに、我々自身の諸期待に依存するのである、と。
 諸物事が改善すれば、諸期待は上昇し、その結果、諸条件における劇的な諸改善すら、我々を以前同様の不満足のままに留め置く、と。・・・
 実際、もし、幸福が諸期待によって影響されるのだとすれば、現代世界における中心的支柱群の一つである、マスメディアは、全球的な幸福諸水準の顕著な諸向上を、妨げるように殆んど誂えられているように見える。
 5,000年前に小さな村に住んでいた男性は、自分自身をその村の他の50人の男性達との比較で自分自身を測っていた。
 彼らと比較すれば、自分はかなり素晴らしい(hot)ように見えたわけだ。
 <ところが、>今日では、小さな村に住んでいる男性は、自分自身を諸スクリーン上及び巨大な広告板群上で毎日彼が目にする映画俳優達やモデル達と比較する。・・・
 <そもそも、>進化は、幸福それ自体には関心を持っていない。
 すなわち、進化は、生存と繁殖だけに関心があるのであって、それは、幸福と惨めさを単なる刺激群(goads)として用いるのだ。
 進化は、我々が何を達成しようと、永久により多くを求めてあえぐべく、我々を、確実に、不満足なままに留めようとするのだ。・・・
 『素晴らしい新世界』の中で、オルダス・ハックスリー(Aldous Huxley)は、幸福が至上価値である世界・・そこでは、みんな、その生産性と効率性を阻害することなく、常にソーマ(soma)という薬を服用する・・が、人々を幸福にする様を描いた。
 この薬は、この世界国家(World State)の諸基盤のうちの一つであり、諸戦争、諸革命、或いは諸労働争議によって脅かされることは決してないのだ。
 なぜなら、全ての人々が自分達の現在の諸条件にこの上もなく満足しているからだ。
 ハックスリーは、この世界を恐怖の(frightening)反ユートピアとして提示した。
 今日では、日々、より多くの科学者達、政策立案者達、及び、通常の人々が、幸福を自分達の目標として採用している。・・・
 何千年も前に、仏教僧達は、幸福の諸感覚(sensations)の追求は、実のところ、苦悩のルーツなのであって、幸福は正反対の方向に横たわっている、という驚くべき結論に到達した。・・・
 だから、仏教においては、幸福は愉楽の諸感覚なのではなく、我々の真の本性を理解することからくる、智慧、静謐と自由なのだ。
 それが真実であるか誤謬であるかに関わらず、このような異なった諸見解の実践的影響は無視しうるほどしかない。
 なぜなら、資本主義の絶対的な力(juggernaut)にとっては、幸福は愉楽(pleasure)なのだ、丸、だからだ。」(G)

(完)