太田述正コラム#7208(2014.9.28)
<中東イスラム文明の成立(その12)>(2015.1.13公開)

  エ シーア派

 Isisは、イラクとシリアで、シーア派系政権と戦ってきたところ、この際、シーア派とは一体何か、についても、考えてみたいと思います。

 シーア派についてですが、「信者はイスラム教徒全体の10%から20%を占めると推定され<、>2009年には、信徒数は約2億人と推定される。信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(・・・<それぞれ、>全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし・・・だが、人口の半数以上を超えているといわれる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またイエメン(45%)、パキスタン(20%)、サウ<ディ>アラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーン、アフガニスタン(ハザーラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。・・・
 スンニ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰<が>同一地域のスンニ派に比べ一般に広く行われている。・・・
 すべての<イスラム教徒>の聖地である<メッカ>、<メディナ>、エルサレム(アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマーム<(注12)>の霊廟のある都市も聖地とする。とくに重視されるのはイラクのナジャフにある初代アリーの霊廟と、カルバラーにある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟があるカーズィマイン(バグダード近郊)と、第10代および第11代の霊廟があるサーマッラーを加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の巡礼が詰め掛ける。また、イランのマシュハドには第8代の霊廟があり、ここも聖地となっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%B4%BE

 (注12)「<スンニ>派においては、・・・イスラム教徒・・・の大小の宗教共同体を指導する統率者のことをイマームと呼ぶ。一方、シーア派においては宗教共同体にとって特別な存在である「最高指導者」をイマームと呼ぶ。・・・
 <シーア派においては、>預言者ムハンマドの従弟で娘婿であるアリーとその子孫のみが<イマームに>相応しいと考える」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0

 まず、ムハンマド当時のサーサーン朝ペルシャの領域
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D#mediaviewer/File:Persia_600ad.jpg
と(上掲の記述にも出てくる)現在のシーア派地域
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%B4%BE#mediaviewer/File:Muslim_distribution.jpg
の双方の地図を見てください。
 1,400年を隔てているにもかかわらず、この二つがほぼ重なっていることが分かります。
 これは、決して偶然の一致なのではありません。

 第3代カリフのウスマーンは651年にサーサーン朝ペルシャを滅亡させました。
 フサインは、兄ハサンとともに、ムハンマドの娘のファーティマと第4代カリフのアリ・・ムハンマドの父方の従弟にあたり、母もムハンマドの祖父の姪・・の間の子です。
 アリが殺害された後に第5代カリフに就任したハサンは、シリア総督のムアーウィヤに譲位させられたところ、ムアーウィアは自分の子ヤズィードを後継者として宣言し、フサインを次代カリフ候補から除き、カリフ職を世襲制へと変容させる布石を打ちます。
 ムアーウィアが没してヤズィードがカリフに就任した時、フサインがヤズィードに反旗を翻すのですが、彼は、カルバラーの戦いで680年に戦死してしまいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0) 
 シーア派では、アリーを初代イマーム、ハサンを第2代イマーム、そして、このフサインを第3代イマームとしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0 前掲

 そして、「イスラム帝国・・・は<サーサーン朝>ペルシアを軍事的に<は>征服した<けれど>、古くから文明を発展させてきたペルシアは官僚や学者としてこれを支え、むしろイスラム帝国を内部から文化的に征服したとも評され<、>イスラム帝国のもと、ペルシアの文化は再度開花した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99
ことを背景に、「<ペルシャ>において・・・<この>フサイン<が>サーサーン朝王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア帝国の血を受け継いでいるという伝承が<生まれたことに象徴されているように、シーア派は>ペルシア人<が創り出した自分達の>民族宗教としての側面<が>ある」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%B4%BE 前掲
のです。

 私見では、Isisは、ムアーウィアが興したウマイヤ朝・・イスラム帝国の首都を、アリによって定められた(現在のイラクの)クーファから(現在のシリアの)ダマスカスに移した・・の、ペルシャ人ないしシーア派への宥和政策が、その後のイスラム世界にとって最大の癌となった、という認識なのであり、Isisの領域拡大の第一段階において、拡大レバント(イラク・シリア・レバノン・ヨルダン)における、シーア派系政権からの権力奪取とシーア派霊廟群の破壊、ひいてはシーア派の壊滅、を目論んでいるのです。
 これを達成できれば、非ペルシャ人たるシーア派・・サーサーン朝時代のペルシャの植民地原住民の後裔達・・の大部分を一掃でき、その上で、おもむろにシーア派の本家のペルシャ(イラン)攻略に取り掛かる、という構想をIsisは抱いているように思われます。
 (Isisが、レバントのユダヤ人国家たるイスラエル攻略を、いつの段階で考えているのか、までは私には見当がつきません。)

(続く)