太田述正コラム#7200(2014.9.24)
<中東イスラム文明の成立(その8)>(2015.1.9公開)

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<脚注:Isis的なものの前駆的諸形態>

 表記に係るコラムに遭遇したので、そのさわりをご紹介しておく。

 「この数年、一見新しいタイプの政体の劇的な興隆が続いている。・・・
 西アフリカのボコ・ハラム(Boko Haram)<(注8)>、東アフリカのシャバブ(Shabab)<(注9)>、コーカサスのイスラム首長国(Islamic Emirate)<(注10)>、そして、もちろん、中東の、IsisないしISILとして知られるイスラム国だ。

 (注8)2002年設立。ボコ・ハラム「とは「西洋の教育は罪」という意味<だが、>・・・西洋文明、現代科学、特にダーウィン主義<も>攻撃している<ところの、>ナイジェリアのサラフィー・ジハード主義組織<であって、>正式な名称は「宣教及びジハードを手にしたスンニ派イスラム教徒としてふさわしき者たち」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%83%A0
 なお、2014年7月、ボコ・ハラムの指導者のアブバカール・シェカウ(Abubakar Shekau)は、新しいカリフ国(caliphate)とカリフ・イブラヒム(Ibrahim<(=バグダーディー)>)の支持を宣言した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Islamic_State_of_Iraq_and_the_Levant#Goals
 (注9)アル・シャバブ。2007年から活動開始。「現在、ソマリアで最も有力なイスラーム勢力であり、ソマリア南部で最も支配地域が広い勢力でもある。ソマリア暫定連邦政府とそれを支援するエチオピア、アメリカ合衆国、アフリカ連合などと対立している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%90%E3%83%96_(%E3%82%BD%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2)
 (注10)2007年に樹立を宣言し、北コーカサスからのロシアの駆逐を目指している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Caucasus_Emirate

 これらの運動体群(movements)は、欧米に対する聖戦を呼びかけるだけでなく、神政政府群を構築するために自分達の諸資源を用いる。・・・
 反植民地的聖戦と国家構築に従事した最初の諸集団の一つが、1830年代と40年代にフランスの北アフリカの帝国主義的侵攻に挑戦したところの、アブド・アルカーディル(Abd al-Qadir)<(注9)>率いる戦闘員達だった。

 (注9)1807〜83年。「1830年よりフランスによるアルジェリア侵略が始まると、フランスに対するジハードを宣言し、16年間の長期にわたる抵抗を続けた。一時はアルジェリアの三分の二を制圧し、軍事・財政面での近代化も図られた。1847年に降伏すると、その後1852年までフランスのポー城に幽閉された。ルイ・ナポレオン政権のもとで釈放され、一時小アジアのブルサにとどまったあと、シリアのダマスクスで暮らした。・・・<そして、>アルジェリアの「アラブ王国」化構想を抱いていたナポレオン3世に協力し、1860年にレジオン・ドヌール勲章を授けられた。・・・パリにある廃兵院には彼の肖像絵が飾られ、その扱いが歴代フランス陸軍将軍と同列であることは、彼の評価の高さを物語っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AB

 カディールは、自らを「信心深き者達(faithful)の司令官」・・カリフの称号・・と宣言し、西アルジェリアにイスラム国家を建国し、マスカラ(Mascara)に首都を定め、正規軍を持ち、シャリーアを執行する行政機構を持ち、若干の公共諸サービスを提供した。
 この国家は安定することがなく、また、明確に定義された領域を持つことも決してなかった。
 そして、結局はフランスによって消滅させられた。
 同じく短い期間しか続かなかったのが、1880年代初から1890年代末まで続いたところの、スーダンにおけるマーディ主義者の国家(Mahdist state)<(コラム#590、4210、5310)>だった。
 自分でそう宣言したところのマーディ(Mahdi)<(注10)>(「救世主(redeemer)」)たるムハマッド・アハマド(Muhammad Ahmad)に率いられた、この運動体は、エジプトのオスマントルコの支配者達と彼らの英国の諸主人(overloads)に対する聖戦を呼びかけ、電信網、兵器工場群、そして情宣機関群等を含む国家諸機構を確立した。

 (注10)マーディの意味については、コラム#320、1013、1100参照。

 この叛徒達は、喫煙、酒、そして舞踊を禁止し、諸宗教的少数派を迫害した。
 しかし、この国家は安定した諸制度を提供することができず、経済は崩壊した。
 エジプト軍によって支援された英軍が、スーダンで士官として勤務していた若きウィンストン・チャーチルによって『ナイルの戦い(The River War)』の中で記録されたところの、血腥い作戦によってこの体制を粉砕するより前に、人口の半分が、飢饉、疾病、及び暴力で死んだ。
 最も精緻な(sophisticated)19世紀のイスラム教叛徒国家は、コーカサス・イマーム国(Caucasian imamate)<(注11)>だった。

 (注11)1828〜59年。3代目のイマームのイマーム・シャミール(Imam Shamil)は、投降後、ロシアの有名人扱いになり、モスクワ郊外に邸宅を与えられて余生を送った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Caucasian_Imamate

 そのイマーム達(imams)は、チェチェン(Chechnya)とダゲスタン(Dagestan)のイスラム教徒達を糾合し、その地域を従えようとしていたロシア帝国に対して30年間の聖戦へと導いた。
 この闘争中に、叛徒達は、山地の諸コミュニティを戦闘的なイマーム国へと追い込み、内部反対者達を処刑し、シャリーア、両性の分離、酒と煙草の禁止、音楽の規制、及び、厳格な服装諸規定の執行、を押しつけたが、これらは極め付きに不人気な諸措置だった。
 皇帝の諸部隊は、このイマーム国と極端な暴虐性でもって対峙し、それを最終的に粉砕した。
 これら全ての諸事例において、二つの異なった、しかし相互に絡み合った紛争群が存在した。
 一つは非欧州諸帝国に対するものであり、もう一つは内部の諸敵に対するものであり、どちらの闘争も国家構築と組み合わされていた。・・・

⇒このコラムの筆者は、ケンブリッジ大学の歴史学者ですが、スーダンの宗主国であったエジプトは確かに非欧州帝国でしたが、その更に宗主国であった英国は地理的意味での欧州帝国なので、このような叙述はおかしいと言うべきでしょう。
 なお、ロシアを非欧州帝国であるとしているのは、当然なのかもしれませんが、興味あるところです。(太田)

 <現在のイスラム国が、上述の>19世紀の<イスラム>諸国家と違いがあるとすれば、それは、それが、より急進的で精緻であることだ。
 イスラム国は、恐らく、近代史の中で、最も精巧で(elaborate)戦闘的な政体だろう。
 それは、階統的に組織された官僚制、司法制度、マドラッサ群、巨大な情宣機関、及び、石油を闇市場で売却することを可能にする財政網、を含む、近代国家諸制度を用いる。 <また、>それは、抑圧(suppression)と富の集積という理論的根拠に基づく、大量諸処刑、誘拐と略奪という暴力をこれまでのイスラム教的諸政体では知られていない程度にまで用いる。
 そして、その諸祖先とは違って、その指導者達は、ローマの聖ペトロのそれ<(カトリック教会)>の鼻を明かすことを夢見るところの、全球的諸熱望(aspirations)を抱いているのだ。」
http://www.nytimes.com/2014/09/24/opinion/the-ancestors-of-isis.html?ref=opinion&_r=0
(9月24日アクセス)
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(続く)