太田述正コラム#7164(2014.9.6)
<インド文明の起源(その2)>(2014.12.22公開)

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<脚注:アーリア人>

 これまでの記述で、「<渡来>人」となっている箇所は、原文では、いずれも、「アーリア人」だったものだ。
 私がそのように「訂正」したのは、(引用したヒンドゥー教徒の現在の通説の記述ぶりに従ったものだが、)以下の理由による。

一、アーリア人概念はかつてのアーリアン学説によって「汚染」されている。

 アーリア人には以下の狭義と広義が存在する・・・
〇狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前) イラン・アーリア人
〇広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念) インド・アーリア人
  狭義のアーリア人
  ペルシア人
  パシュトゥーン人
  タジク人
  北インド諸民族
〇最広義のアーリア人(アーリアン学説におけるアーリア人種) インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫・・・
 狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている・・・
 尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は歴史的にも血統的にもアーリア人の成り立ちから考えて妥当ではなく、現在はほとんど否定されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
 「インドがイスラム教徒により支配される前はヒンドゥー教徒が支配しており、ヒンドゥー教徒の支配階級はアーリア人またはアーリア人との混血を起源としていた<ことから、アーリアン学説は、>・・・インドの植民地支配において、「イギリス人によるインド人支配」を正当化するために利用された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%AD%A6%E8%AA%AC

二、アーリア人はドラヴィダ人と急速に混血した。

 「前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が<インド亜大陸等へ>拡大していった・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA 上掲
 「紀元前13世紀頃、インドアーリア人が原住民族のドラヴィダ人を支配するためにヴァルナを作り出した。そして自らを最高位の司祭・僧侶階級に置き、ブラーフマナ=バラモンと称したのが始まり――というのが古い学説であるが否定されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3

 具体的には、「紀元前1300年頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミンと、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。が、近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が発覚した。
 紀元前1000年頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始ま<り、インド亜大陸の人々の区分>は人種ではなく、言語や宗教によってなされるようになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E4%BA%BA
 (こうして、言語で言えば、インド亜大陸北部は、基本的に、アーリア人由来のインドヨーロッパ語の分枝であるヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語等
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%AA%9E%E6%97%8F
をしゃべる人々、南部は、基本的に、亜大陸原住のドラヴィダ人由来のドラヴィダ語の分枝であるタミル語等をしゃべる人々、で構成されることになった。
 但し、タミル語を除き、「アーリア<人の言葉>・・・の影響を・・・大きく受けており、・・・<アーリア人の言葉>の単語とその派生語<を多用している>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E8%AA%9E%E6%97%8F )
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 そのためには、まず、インド亜大陸原住民のドラヴィダ人がどういう人々であったかを押えておく必要があります。

 「インダス文明はドラヴィダ人によるものだと[いうのが有力説であり、]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E4%BA%BA 前掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization ([]内)
現に、ドラヴィダ語の分枝であるブラーフーイー語をしゃべる人々が、現在のインド(及びスリランカ)のドラヴィダ語地区から遠く離れたパキスタンとアフガニスタンの一部に現存している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E8%AA%9E%E6%97%8F 前掲
ところ、インダス文明の都市の下水や排水システムは、今日の中東の諸都市どころか、今日のパキスタンとインドの多くの諸都市よりも整備されていた、というほどその文明は高度であった
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization 前掲
というのに、「被葬者間に際立った社会的格差が見られ<ず>、・・・他の古代文明<や後のインド文明>とは異なり、[政治の中心であるはずの都市に住んでいたのは商工業者らしき者達ばかりで、]戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡<も>見つかっていない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization ([]内)
という点が極めて注目されます。
 縄文時代に生き写しですし、支那の江南文化にも似ていますね。
 ところが、縄文時代や江南文化と違って、インダス文明/ドラヴィダ人がどうしてそうだったのかの、まともな説明を目にしたことがありません。
 (上掲の英語ウィキペディアは「インダス諸都市の巨大な・・・防護・・・諸壁が・・・人々を洪水群から守っただけでなく、軍事的諸紛争を思い留まらせた(dissuade)という可能性が最も高い」としていますが、その部分に典拠が付いていませんし、そもそも、全く説明になっていません。)

 そこで、大胆な私の仮説を提示してみましょう。

 インダス川流域は、春から秋まで猛烈な暑さです。
http://www.pakistan-travelguide.net/001/post_5.html
 そのお隣の北部インド一帯の酷暑ぶりは、比較的よく知られているところであり、私自身、1976年の6月と1988年の9〜10月に身に染みて経験していて、
http://www.tabi2ikitai.com/geography/j0101a/a01024.html
http://paraiso100.blog.shinobi.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%80%99%E3%81%AF%EF%BC%9F/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%9A%91%E3%81%84%E3%81%AE%EF%BC%9F )
どれほど凄まじいか、よく承知しています。
 暑いと、外で激しい作業に従事したくない、というか、従事できないのであって、年間の殆んど、戦争などという激しい作業などやる気も起きない、ということだったのではないでしょうか。(注3)

 (注3)では、他の古代文明発祥地はどうかと言うと、チグリス・ユーフラテス流域の「イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類されます。5月から10月の夏期には、乾燥してほとんど雨が降りません。」
http://ashita.yu-yake.com/asia-geo-clim/middle-east-asia-clim.htm
であるし、ナイル流域の「エジプト<では、>・・・カイロから南へ向かうごとに海から遠くなっていくので、湿度は最終的に砂漠と同等に。」
http://55096962.at.webry.info/201009/article_11.html
・・こちらも実体験している・・と、湿気が少ないので、インダス流域に比べれば、はるかに暮らしやすい。
 インダス川流域の湿度はすぐ適当なサイトが見つからなかったが、周辺が中東のような草木一本も生えない砂漠ではないし、インドの場合、「ムンバイ<は>・・・湿気がすご」く、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1281397912
その原因は、「6〜10月の雨季は、・・・はインド南西からアラビア海の湿気を含んだ季節風(モンスーン)がやってきて大雨を降らす」
http://latte.la/travel/place/india/weather
ことにあるわけだが、比較的パキスタンに近いムンバイの状況を踏まえれば、インダス川流域も相応に湿気が高い季節が多いと考えられる。

 農業は、想像するに、インダス川流域の豊富な水と肥沃な堆積土頼りの粗放農業で、商工業者は、できるだけ室内に閉じこもっていた、と推測するわけです。
 (当時は空調がなかったので、室内もうだるような暑さだったと思いますが、外とは比較になりません。)
 
(続く)