太田述正コラム#7134(2014.8.22)
<フィリップ2世の帝国(その2)>(2014.12.7公開)

 「スペイン、アラゴン、ヴァレンシア、マジョルカ、そしてサルディニアの国王にして、バルセロナの伯爵にして、グラナダの国王にして、ミラノの公爵にして、シチリアとエルサレムの国王にして、諸インド(Indies=東インド=アメリカ大陸)とポルトガルの国王にして、セイロンの国王、等々、であったところの、フィリップは、彼を尊敬する人々には、「賢明な(prudent)国王」として、そして、沢山いた彼の敵達には、「真昼の(Midday)悪魔」として、知られていたが、欧州の最も強力にして金持ちの国を統治した。
 スペインとポルトガルが一つの王冠の下で、「カトリック君主国(the Catholic monarchy)」という呼称でもって・・統一されていた1580年から1640年の間において、それは、メッシーナ(Messina)<(注7)>からマカオにまで及んでいた。

 (注7)「イタリア共和国のシチリア島北東部にある都市で、・・・古代ギリシャの植民都市にさかのぼる・・・要衝の港町」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8A

 メキシコの詩人のベルナルド・デ・バルブエナ(Bernardo de Balbuena)<(注8)>は、「スペインは支那につながり、イタリアは日本につながっている」と記した。

 (注8)1562〜1627年。スペインのトレドに生まれ、カリブ海のプエルトリコ司教として死す。シグエンザ(Siguenza)大学卒。
http://es.wikipedia.org/wiki/Bernardo_de_Balbuena
 ジグエンザ大学はスペインのグアダラハラ州シグエンザに1476年から1837年まで存続した大学。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sig%C3%BCenza

 しかし、それは、現代的な感覚における「帝国」ではなかった。
 それは、フィリップの複数の諸称号が示しているように、一人の国王を持った、半ば独立した諸王国の集合体(collection)だった。
 アメリカ大陸でさえ、英国の北アメリカにおける諸入植地とは違って、諸植民地であったことは一度もなく、「諸インドにおける諸王国(kingdoms of the Indies)」だった。
 全てが君主の一身によって危なっかしく一つに保たれていたわけだ。
 それは、恐るべき(formidable)法的機構(apparatus)であり、かつ、諮問的(conciliar)行政の複雑な制度だった。
 フィリップ自身は偉大なる官僚だった。
 彼は、スペインにその最初の首都を与えた。<(注9)>

 (注9)「1561年に<フィリップ>2世<は>宮廷をマドリードに移した。王の公式な宣言はなかったものの、宮廷の位置が事実上の首都となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89

 彼は、時計を用いて仕事時間を規制する最も早い試みを導入した。
 (当時の一般的な慣行ではなかったが、)彼は、自分自身で、あらゆる重要な国家文書を吟味し、マドリード郊外に自分のために建設した宮殿兼修道院であるエスコリアル(Escorial)<(注10)>から、「ペンと紙でもって」世界を統治したことを自慢していたとされる。

 (注10)王立サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院。「マドリッドの北西45kmに位置する町・・・にある広大な宮殿、修道院、博物館にして図書館の複合施設・・・
 <フィリップ>2世の命令で王家の墓所<として、また、>・・・反宗教改革の研究を目的として・・・1563年から1584年にかけて造営された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E4%BF%AE%E9%81%93%E9%99%A2

 その巨大な広大さにも関わらず、フィリップにとって、この帝国の核心は、彼の父親のカール5世にとってそうであったように、オランダとベルギーの全体だった。
 それに「スペイン帝国」は常に結び付けられ(associated)きたものの、アメリカ大陸は、概ね付随的なものであり、フィリップは、アメリカ大陸が生み出した巨大な富の大部分を、彼の、オランダの臣民達を臣従させようとする実りない試み<(注11)>に費消したのだった。」(B)

 (注11)「八十年戦争・・・は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある。この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王<フィリップ>2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認された。・・・
 15世紀にネーデルラント(現在のベネルクス)はブルゴーニュ公国の一部となる(ブルゴーニュ領ネーデルラント)。この頃のネーデルラントは毛織物生産により経済的先進地となり、ヘント(ガン)、アントウェルペンなどの富裕な都市を生みだしている。しかし1477年にブルゴーニュのシャルル豪胆公が戦死すると、一人娘のマリー女公は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラント地域はハプスブルク家の所領となった。
 神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後ハプスブルク領がオーストリア系とスペイン系に分かれると、ネーデルラントはスペインの支配下に入った。
 カール5世の統治時代、ネーデルラント17州は徐々に経済的自由を失っていった。さらに、17州にはプロテスタントが伝わり普及していった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
 なお、南部10州は、18世紀のスペイン継承戦争の後、オーストリア・ハプスブルク家領になるまで、スペイン・ハプスブルク家領にとどまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

→太田コラムでは、これまで「フィリップ(Philip)2世」(英語表記)と「フェリペ(Felipe)2世」(スペイン語表記)を併用してきたところですが、本人の意思を尊重して、今後は、本シリーズ名を含め、「フィリップ2世」(オランダ語(Philip)/フランス語表記(Philippe))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97
で行こうと決心した次第です。(太田)

(続く)