太田述正コラム#7114(2014.8.12)
<米国とその人道的介入の歴史(その2)>(2014.11.27公開)

リチャード・ニクソンとヘンリー・キッシンジャーは、無言のうちに、1970年代の東パキスタンにおけるパキスタン軍部の民族浄化<(「バングラデシュ虐殺事件と米国」シリーズ(コラム#6503以下)参照)>に支持を与えたところ、それは、少なくとも30万人の死をもたらした。・・・
 また、クメール・ルージュがカンボディアで1975年から79年にかけて、その約700万人の国民のうちの25%を死に導いた・・これは比率的に20世紀における最大のジェノサイドだ・・時、米国政府は傍観を続けた。・・・
 米国は、ポル・ポト(Pol Pot)<(注2)>の支配を終わらせたところの、1978年から79年にかけての、親ソ連のベトナムによるカンボディア侵攻にさえ批判的だった。

 (注2)1928〜98年。「奨学金で、パリへ留学。Ecole Francaise de radioelectriciteで2年間の技術コースを受ける。フランスには1949年・・・に到着した。留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。・・・試験に3年連続失敗し奨学金を打ち切られたため1952年・・・に船でフランスを後にし、1953年・・・にカンボジアに到着した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%88

 同様、サダム・フセイン(Saddam Hussein)<(注3)>が化学と通常の諸兵器を使って1988年にクルド人種の人々を推計で10万人殺害した時も、米国政府は、その直近において、イランという共通の敵を持っていたところの、イラク政府に対して対話を申し入れていたわけだが、介入するどころか、制裁を課すことさえもしなかった。

 (注3)1937〜2006年。中卒。「1957年にバアス党に入党・・・1959年には叔父が教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った・・・男を<従兄弟>・・・の命により銃で殺害した。<この従兄弟>と<サダム>は殺人容疑で逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった。・・・バアス党は親英王制を打倒させ政権についていたアブドゥル=カリーム・<カシム>が・・・<ナセルの>アラブ連合共和国への参加に懐疑的だったため、1959年に<カシム>首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に暗殺の実行犯として関与した<サダム>は、<カシム>の護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、逮捕を逃れるためベドウィンに変装し、ティグリス川を泳ぎ継いで、シリアに亡命、ついでエジプトに逃れた。シリア滞在中にはバ<−>ス党の創始者ミシェル・アフラクの寵愛を受けた。亡命中の欠席裁判により、<サダム>は死刑宣告を受けた。<サダム>は、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には、法学で学位を取得したとされるが、カイロ大学に彼の在籍記録が存在しない。」
 彼が、バース党政権ナンバー2(副大統領)からナンバー1(大統領)に「昇格」した経緯も凄まじいが省略する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B3

⇒クメール・ルージュの話はともかく、東パキスタンとイラクの話については、分離独立(阻止)の過程で起こったことであり、凄惨な米南北戦争の際、自らは46万人の死者(戦病死含む)、<分離独立を目指した>南部側には34万8,000人の死者(同左)、と人口比ではるかに大きな被害を出した米国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89
の人間が論評する資格はないでしょう。(太田)
 
 当時は無条件の米国の全球的至上性の瞬間だったが、1994年のルワンダでのジェノサイドに対する無干渉(hands-off)アプローチ<がもたらした惨劇>こそ、米国をそのまどろみから目覚めさせたところのものだ。・・・
 <このような、>1世紀にわたる非介入の実績(track record)に照らせば、1999年の米国が率いた、セルビアによるコソヴォのアルバニア人の民族浄化を止めるためのユーゴスラヴィアでの爆撃作戦は逸脱だった。
 しかし、この事例においてさえ、米国政府は、利他主義以外に、恐らく間違いなく他の諸考慮・・西欧諸国の介入への決意、米国政府のユーゴスラヴィアのスロボダン・ミロシェヴィッチ(Slobodan Milosevic)<(注4)>大統領に対する敵意、及び、米国の圧倒的な軍事的優位・・によっても影響を受けていた。

 (注4)1941〜2006年。「ベオグラード大学法学部卒・・・セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア<(新ユーゴ)>大統領(第3代)、セルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。・・・1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。また1998年以降激化したコソボ紛争を治安部隊により弾圧したが、1999年のNATOによるユーゴ空爆後、コソボの国連管理を容認することとなる。・・・コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、経済援助を条件にするNATOの圧力の下、2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕・収監された。同年7月には同国憲法に違反して国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われた。・・・収監中の独房で死亡」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%81

 そして、米国の爾後の記録・・スーダンのダルフール(Darfur)地区、無秩序な中央アフリカ共和国、或いは(再び)コンゴ、における民族浄化を止めるのを失敗した・・はみじめなもの(dismal)だ。」

⇒20世紀後半における悪名高い民族浄化/ジェノサイドを指揮した3梟雄であるところの、ポル・ポト、サダム・フセイン、ミロシェヴィッチ、を並べてみると、最初の二人は、完全に水滸伝中の悪党といった趣がありますね。
 いずれにせよ、この3人に指揮されたところの、カンボディア人(下手人はクメール共産党員)、イラク人(下手人はスンニ派)、及び旧ユーゴスラヴィア人(下手人はセルビア人)の民族浄化/ジェノサイド性は一過性のものであったのに対し、米国人の民族浄化/ジェノサイド性は超時代的かつ構造的なものである、という点で、米国人のそれの方がはるかに悪質である、と言えるでしょう。(太田)

3 終わりに

 ライト師やオバマ夫妻にひき続く、米国の闇を直視できる米国の知識人は、依然、殆んどいないようだ、という印象を改めて持ちました。

(完)