太田述正コラム#7094(2014.8.2)
<ロシア亜文明について(その4)>(2014.11.17公開)

 どうして、ロシアでは、農奴制が長く維持されたばかりか、その間、その徹底化が進行したのでしょうか。

 「1670年から1671年にかけては、ドン・カザークのスチェパン・ラージン<(注10)>を中心に大規模な反乱が起こっている(<スチェパン>・ラージンの農民反乱)。・・・反乱の原因のひとつに、農業に見切りをつけた逃亡民がドン・カザークの地に大量に流入したことが挙げられる。・・・

 (注10)ステンカ・ラージン(Stenka Razin。1603〜71年。叛乱:1670〜71年)。「1654年から1667年までのポーランドとのロシア・ポーランド戦争(13年戦争)、1656年から1658年までのスウェーデンとの北方戦争はロシアの人々に重い負担を強いた。<皇帝>専制体制が確立され、徴税と徴兵が強化された。多くの農奴・小作農は南に逃れ、ラージンのコサック盗賊団の仲間になっていった。農民だけでなく下層階級の人々や・・・非ロシア民族の人々もまたラージンの一味となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3
 この農民叛乱に係る有名な民謡をどうぞ。Boris Shtokolov歌唱。
https://www.youtube.com/watch?v=rXc4AXAm7l0

 <また、>1773年から1775年にかけて、<スチェパン>・ラージンの乱よりもいっそう大規模な農民反乱としてプガチョフの乱が起こっている。首謀者のエメリアン・プガチョフ<(注11)>は、・・・農民たちに対して「貴族身分抜きの国制」を呼びかけた。・・・彼らの軍がカザン攻撃をやめてモスクワに向かっていたらエカチェリーナの王権は命脈が尽きていた可能性があるとさえいわれている。・・・プガチョフの反乱に参加した農民たちの思いの根底にあったものは「彼らの祖先たちが自由人であった時代に戻ること」であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E5%88%B6 前掲

 (注11)1740/42〜75年。スチェパン・ラージンが生まれたのと同じジモヴェーイスカヤ集落でドン・カザーク(コサック)の家に生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95
 1773年から1775年に発生。「武装蜂起は初期の段階では、オスマン帝国との露土戦争 (1768年-1774年)で疲弊した農民の不満を背景に成功し、プガチョフは「自分は<エカチェリーナの夫であった>ピョートル3世である」と僭称(偽皇帝)して、農奴制からの解放を宣言した。・・・皇帝・エカチェリーナ2世は、啓蒙専制君主として知られたが、乱の後、農奴への恐怖から反動的な姿勢に転じることになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95%E3%81%AE%E4%B9%B1

 注(10、11)も併せ読んでいただけば、タタールの軛を脱してからのロシアは、恒常的に、西方の欧州からの侵略に対して攻勢的防御に当たりつつ、二度と軛をかけられないよう、南方及び東方の遊牧/イスラム地域に対する緩衝地帯の拡大を図って行ったことがお分かりいただけると思います。
 その原資は、農民からの収奪に求めるしかなかったわけですが、その結果、今度は、間欠的にコサック・・逃亡農民ないしは緩衝地帯拡大の尖兵・・を扇動者とする農民や逃亡農民の叛乱によって政権の存続を脅かされることとなり、ロシアは、一層農民の締め付け・・農奴化の徹底・・を図らなければならなくなる、という悪循環的経過を辿った、ということです。

 さて、時代が下って、第一次世界大戦の途中でロシア革命が起きるわけですが、スターリンの下で1928年に始まった農業集団化は、私見では、マルクス主義に基づく生産手段の公有化と言うよりは、白軍との内戦及びロシア干渉戦争を戦い、引き続き「資本主義」諸国の包囲下にあった赤露(ソ連=ロシア)にあって、自らをロシア皇帝に擬したスターリンが断行した農奴制への回帰です。
 それは、当時のソ連の農民の受け止め方でもありました。

 「農民達(peasants)が集団化を第二の農奴制と信じた理由は、コルホーズ(kolkhoz)への加入が強制によるものだったことだ。
 農民達(farmers)は集団農場を許可なく離れる権利を有しなかった。
 国家による諸調達の水準と諸穀物の価格もまた、奴隷制との相似(analogy)観念を補強した。
 つまり、政府は諸穀物の過半を召上げ、極端に低い諸価格を支払ったのだ。
 1860年代の農奴達はタダで召上げられたが、それでも、農業集団化は農民達(peasants)に農奴制を思い出させたのだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Collectivization_in_the_Soviet_Union

 ソ連には、このほかソホーズ(国営農場)もあったわけですが、さしずめ、ソホーズは皇帝直轄領、コルホーズは貴族領といったところでしょうか。
 驚くべきは、ソ連崩壊後のロシアの現状です。
 
 「国有<(国有及び公有の意味か(太田))>農地は1990年の100%から2000年には40%未満まで減少した。
 しかし、土地所有の民間への開放(privatisation)は、これまでのところ、諸個人による直接的コントロールへの移管をもたらしておらず、国家によって民間への開放がなされた土地の大部分は以前の集団諸農場の大規模な企業後継者達によて管理され耕作されている。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Agriculture_in_Russia

 つまり、現在でもロシアの農村では、基本的に1860年代の農奴制が維持されている、ということです。(注12)

 (注12)「1861年・・・に農奴解放令が公布され、農奴には人格的な自由と土地が与えられた。しかしながら、土地が無償分与された訳ではなく、政府が領主に対して寛大な価格で買戻金を支払うことになり、解放された農奴は国家に対してこの負債を支払わねばならなかった。また、土地の1/3程度が領主の保留地となり、多くの場合、元農奴は耕作地が狭められた上にやせた土地が割り当てられた。大概の分与地は農村共同体(ミール)によって集団的に所有されて農民への割り当てと様々な財産の監督が行われ、元農奴は領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 という状況を想起させる。
 ことほどさように、ロシア農民は農奴制的なものが大好きである、ということだ。

 ロシアは、この点では、欧州よりも一足早くプロト欧州文明回帰を行い、現在に至っている、というわけです。

(続く)