太田述正コラム#7092(2014.8.1)
<ロシア亜文明について(その3)>(2014.11.16公開)

 イヴァン3世は、具体的に、どのようにロシアに封建制を導入したのかを振り返っておきましょう。

 「1484年から1505年の間に、イヴァン3世は、計画的に、ノヴゴロド(Novgorod)<(注5)>の貴族達の土地全てを取り上げた。・・・
 
 (注5)「都市としてのまとまりが出来たのは、西暦850年代と言われている。・・・この時代は、ルーシ・カガン国あるいはその国家群であったとされ、・・・<そ>の建国者はルーシと呼ばれていた人々で・・・その後スウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)のリューリクがノヴゴロドを征服し・・・た。リューリク時代はルーシの中心地となったが、・・・リューリクの後継者がキエフに移ったため、政治の中心地は以後キエフ大公国へと移った。しかしノヴゴロドは、商業、工業が伸張し、自由都市となり、キエフ大公国から独立したノヴゴロド公国へと発展していく。・・・
 ノヴゴロドは、公が支配する公国であるが、実態は貴族共和制である。名目上の君主としてルーシの諸公国から公を推戴するが彼には実質的な公権が無く、貴族の利権にそぐわなければ罷免されることもあった。ノヴゴロド公国における公はごく限られた権限しか持たず、その実態はどちらかといえば傭兵隊長としてのみ期待されていた。公が自分の領土から連れてくる従士団・・・は兵力に乏しいノヴゴロド公国にとって貴重な戦力であった。・・・名目上の君主として公を推戴する一方、ノヴゴロドの都市民達は選挙を行いノヴゴロドの市長・・・を選んでいた。市長の権限は公に勝るとも劣らず、軍事以外の多くの政務を市長が掌握していた。ノヴゴロドの市長選は政争や外交問題と密接に絡み合っていた。公の追放はこの市長の交代と機を同じくすることが多かった。また、ノヴゴロド大主教も大きな力を有していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89%E5%85%AC%E5%9B%BD

 <そして、>彼は、自分の献身的な戦士達、約23,000人をノヴゴロドに入植させ始めた。
 彼は戦士たちにたっぷり領地を付与し、その見返りに献身的な役務を求めた。
 これを行うことで、イヴァンは、ロシアに最初の封建制のルーツ群を植樹した。
 彼は、欧州における、封土群を貴族的騎士達だけに与えるという伝統も破った。・・・

⇒このくだりはおかしい。
 ゲルマン人が(西)ローマに侵攻した時点で「貴族」的騎士などいなかったはずであり、封土群は全戦士に与えられ、その結果として、全戦士が貴族となって旧ローマ市民達に君臨した、と見るべきでしょう。
 欧州とロシアの封建制にこの点で違いはなかったはずです。(太田)

 <これらの>封土群は、農奴達/農民達(serfs/peasants)に貸与され、その見返りに、彼らはイヴァン3世の家臣(vassal)に対して労働と役務を提供した。
 農民達は、すぐに自由移動に制限を課され、自分達の諸権利が縮小するのを目撃することとなった。」<(注6)>
http://en.wikipedia.org/wiki/Muscovite_Manorialism

 (注6)「イヴァン3世<は>農民の移動を制限する「1497年法典(スヂェブニク)」を定めた。これにより、農民の移動は「聖ユーリーの日」の前後それぞれ1週間(計2週間)に制限されることとなった。・・・イヴァン3世の孫で初めて「ツァーリ」の称号を公式に採用してロシア・ツァーリ<(ロシア皇帝)>国を建てたイヴァン4世(「イヴァン雷帝」)<は、>・・・農民の多くが、のしかかる負担の重さから領主のもとを離れ、南方や東方の辺境へと<逃亡した>ため、イヴァン治世晩年の頃には「聖ユーリーの日」の規定は廃止され、1580年の勅令でロシア農奴制の基礎が確立した。・・・また、領主に対しては、逃亡農民捜索権および逃亡先への身柄引き渡し請求権が認められた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E5%88%B6

 その後、ロシアでは、17世紀末のフョードル3世(前出)による絶対王政の確立と封建制の廃止にもかかわらず、農奴制は維持される、という特異な歴史を辿ります。

 「「インペラトール(皇帝)」をみずから名乗ってロシア帝国を創始したピョートル1世<(Peter I)(注7)>は、西欧化を推進する財源を確保する必要から農奴制をむしろ強化した。1705年には、勅令が出され、初めての徴兵がなされた。

 (注7)1672〜1725年。皇帝:1682〜1725年。「海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下におき、帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB1%E4%B8%96

 1719年には、全国の農村を対象に住民調査がおこなわれたが、ここでの人口調査の目的は、課税単位を「世帯」から「個人」へと変えることであった。
 こうして、農民は、人頭税の財源として、いわば世襲的に土地に緊縛されるようになったのである。
 人頭税は、平時における軍事費として位置づけられていた。・・・
 18世紀中葉から後葉にかけてのエカチェリーナ2世<(Catherine II)(注8)>統治時代・・・の農民は、ほとんど奴隷に等しい境遇とな<り、>・・・農奴市場<すら>存在した・・・

 (注9)1729〜96年。皇帝:1762〜96年。ドイツの侯爵の娘。「プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A2%E4%B8%96

 皇帝アレクサンドル2世<(Alexander II)(注9)>は・・・1861年・・・、<ついに>農奴解放令を発布し・・・たものの、解放からしばらくの間、農民の生活は以前よりかえって苦しくな<った。

 (注9)1818〜81年。皇帝:1855〜81年。「クリミア戦争の敗北はロシアの支配階級に大きな危機感を抱かせ<たが、>・・・<彼は、農奴解放等、>西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制政治を延命させることが出来るという思想を以って改革に臨んだ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB2%E4%B8%96

 しかし、>・・・経済的には、この改革によりロシアでも農村プロレタリアが創出され、ロシア資本主義発展の基礎がつくられ、19世紀後半に進展するロシア工業化の一要因となった。」(ウィキペディア上掲)

 すなわち、ロシアは、封建制を中心として、プロト欧州文明を継受した後、宗教改革を経験することなく、過渡期の欧州文明の絶対王政を部分的に継受するも農奴制を維持したまま推移し、その後、資本主義社会のとばくちを迎えた時点で第一次世界大戦に突入し、結果的に、欧州文明が生み出した民主主義独裁の一つであるマルクス主義の嫡子たるスターリン主義に絡めとられてしまうことにあいなるのです。

(続く)