太田述正コラム#7082(2014.7.27)
<米独立革命とキリスト教(その8)>(2014.11.11公開)

 (7)米国の使命

 「極めて重要なのは、我々が、受け取った知恵を検証し、その効用を評価し、我々の諸観念、そして我々の諸制度を変更する思想の自由を常に持つことだ。
 この自由は、スチュアートが臆面もなく、かつ繰り返し、リベラリズムと読んでいるものの本質なのだ。
 彼の見解では、「純粋にリベラルな政治制度は、集合体全体の諸活動について、理性に責任を負わせる。…それは、学習の共和国であると同時に学習する共和国である」ことを狙うのだ。
 スチュアートは、彼の最後の章である「自由の宗教」の中で、この全ての現在的諸含意について、詳細に説明する。
 我々の理神論者たる建国の父達によって創造された政府は、もちろん宗教的信条を守ってくれるけれど、それは、「その信条が、本質的(intrinsically)に私的なものであると理解される場合においてのみだ。その私的な宗教的信条に君主(sovereign)の権力が答責するようなことを試みる宗教の形態を許容せず、また、許容すべきではないのだ」、と彼は記す。」(A)

 「私は、米国がそうあるべきであると常にされているところのものになって欲しいのだ。
 それは、理解を促進し、教育を推進するための理性に公的によりコミットしているところの、世俗国家なのだ。
 私は、この全てが<米国から>世界中に普及した時のことを思い巡らす。
 <建国以来の>200年なんて目ではないのだ。<米国はその使命を今後とも、長期にわたって果たし続けて行かなければならない。>」(F)

⇒初めての非白人大統領にして米国人であることを嘆く黒人女性を妻に選んだオバマの大統領の2期目の任期が終わるのがそう先ではないこの期に及んでも、理神論だか、リベラルキリスト教だか、自然宗教だかは知りませんが、なお、米国の例外性、先進性、普遍性・・「例外性」だけは正しいが、「先進性、普遍性」に関しては真逆・・を謳うことに固執するスチュアートのような視野狭窄にして小児病的な知識人を生み出す米国の病根の深さに、眩暈がするほどです。(太田)

 (8)批判

 「<スチュアートと違って、米歴史>学者達の典型的な主張は、<依然、>指導的な建国の父達は非正統的ではあったが、非宗教的ではなかった、というものだ。
 確かに、指導的な建国の父達は、啓蒙主義哲学に多くの価値を見出したけれど、彼らは、啓蒙主義のより穏健な諸表現、とりわけ、キリスト教と和解する(reconciled with)ことが可能であるところの、スコットランドの「コモンセンス(Common Sense)」<(注30)>的諸著述、に自然に引き寄せられたのだ。

 (注30)18世紀のスコットランド啓蒙主義期の哲学者のトーマス・リード(Thomas Reid)、アダム・ファーガソン(Adam Ferguson)、デュゴールド・スチュアート(Dugald Stewart)、及び、ウィリアム・ハミルトン(William Hamilton)らが共有する観念。イギリス人のアイザック・ニュートン(Isaac Newton)、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)の考え方に拠りつつ、デカルト(Descartes)、ジョン・ロック(John Locke)、ジョージ・バークレー(George Berkeley)、及び、デーヴィッド・ヒューム(David Hume)の懐疑的(scheptical)哲学に反対し、現実主義(realism)哲学を提唱した。
 このコモンセンス現実主義は、フランスと英領北米植民地、とりわけ、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)とジョン・アダムズ(John Adams)に大きな影響を与えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_Common_Sense_Realism

⇒スコットランドがイギリスと合邦したばかりの18世紀に、スコットランド人のアダム・スミスが、イギリス社会が資本主義(個人主義)性と人間主義性のコインの両面から成っていることを解明したことと並んで、同じくスコットランド人のトーマス・リードらは、イギリス社会に経験主義性と(この書評子の指摘を踏まえれば)自然宗教性が内在していることを解明した、と理解すべきなのではないでしょうか。(太田)

 こうして、彼らが理神論や何かそれに近いものを抱懐した限りにおいて(to the degree that)、彼らは、選良たる知識人達に概ね限定された世界観を採用した<ことは確かだ>。
 しかし、彼らを、その多くが大覚醒(コラム#6983)の宗教的熱情に押し流されていたところの、<当時の>米国の一般大衆の代表であるとは到底言えない。
 要するに、米独立革命世代の知的諸影響は、数多く様々である、ということなのだ。
 正統的なキリスト教信条は、決定的なものでこそなかったかもしれないが、だからと言って、それを無視できる(insignificant)わけでもないのだ。・・・
 『自然の神』を際立たせているのは、このようなニュアンス全てを拒絶していることだ。
 米建国の本質は、熱烈な(ardent)世俗主義であった、お終い、ではねえ・・。

⇒この書評子のこのくだりの指摘は、私が提示した、米独立革命の指導者達の多くはリベラルキリスト教徒であり、被指導者達の多くは原理主義的キリスト教徒であった、という仮説のもっともらしさを後押ししてくれるものです。
 但し、ジェファーソンらは、欧州文明人たるスピノザの理神論の影響の下、同じく欧州文明人たるトーマス・リードらによるアングロサクソン文明を解明しようとした著作における自然宗教をリベラルキリスト教的に読み違えてしまった、と想定するわけです。(太田)

(続く)