太田述正コラム#7070(2014.7.21)
<2014.7.20関西オフ会次第(続)>(2014.11.5公開)

3 関西オフ会

 依然として、やりとりを殆んど思い出せないので、行われなかったやりとり(?!)を記しておきます。

<太田>

 日本とイギリス以外には、人間主義的名君伝説は殆んど存在しない。

<鯨馬>

 中国にだって、例えば、李世民がいる。

<太田>

 うー誰だったっけ。

<鯨馬>

 宋の祖だ。

<太田>

 ???

 --以下、行われなかったやりとり--

 李世民は唐の二代目だし、宋の祖は趙匡胤でしょ。
 果たして彼は人間主義的名君だっただろうか。

 李世民(太宗教:598〜649。皇帝:626〜649年)「は武将として優れた才能を発揮し、・・・隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。・・・
 <そして、自分が殺害した兄の>建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察<等をして、>・・・唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
 <また、>・・・突厥討伐を実施・・・し、630年・・・には突厥<を>・・・崩壊<させ、>西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。・・・更に640年・・・、西域の高昌国を滅亡させ・・・この地を直轄領とした。
 こ<の>・・・太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。」
 しかし、「『太宗実録』の編者であった許敬宗は、賄賂により筆を曲げたと両唐書の伝にあり、太宗に関する記録の全てが信用できるとは限らない。」ということなので、そもそも、上掲の李世民の事績が真実であるかどうか定かではない上、「高句麗への2度の遠征に失敗している」ことも忘れてはなるまい。
 (以上、「」内は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90) による。)
 より根本的なことがある。
 つまり、仮に、上掲の李世民の事績が真実であるとしても、「賦役・刑罰の軽減」・・この点は後で改めて取り上げる・・以外は、要するに、治安を確保し、外患を絶ったというだけのことであり、名君とは言えても人間主義的名君とまでは言えまい。
 なお、彼は、唐における名君の制度的輩出システムの構築を怠ったどころか、晩年において、立太子問題を発生させたこと(上掲)と、後の武則天(523?〜705年、皇帝:690〜705年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
を寵愛したこととが相まって、唐衰亡の根本原因をつくったことからすれば、名君の域にすら達していない、というのが私の評価だ。
 唐の衰亡を決定的なものにしたところの、(李世民のひ孫の)李隆基(玄宗。685〜762.皇帝:712〜756年)・・その治世の初期は開元の治と称される「名君」だった・・のような、「堕落した後半生でも、民へのいたわりを見せていた。長安から蜀へ避難する際、宝物庫を焼き払おうとする楊国忠に「賊が宝物を得られなければ、今度は民への略奪が激しくなる」と言って制止した。また渭水にかかる便橋(長安城西北にある。西渭橋・咸陽橋ともいう)を渡った際、賊の追撃を防ぐために楊国忠が橋を焼き払おうとしたが、「後から逃げようとする士庶たちの路を絶つな」と言って制止させている(『旧唐書』『資治通鑑』より)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%AE%97_(%E5%94%90)
といった逸話が伝えられておれば、李世民も人間主義的名君と言えるのかもしれないのだが・・。

 で、この際、「唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる」、清の愛新覚羅玄(康熙帝:1654〜1722年。皇帝:1661〜1722年)も月旦することにしよう。
 
 彼は、「1681年・・・に三藩の乱を鎮圧した。その2年後には・・・鄭氏政権<の>・・・台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。・・・<更に、新疆ウィグル地区も直属させた。>・・・<このようにして、>実質的に清を全国王朝とした・・・。・・・
 内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税を度々行った。また、丁銀(人頭税)の額を1711年の調査で登録された人丁(16歳〜59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D
 この倹約の話は英語ウィキペディアには出てこないのだが、減税について、英語ウィキペディアは次のように皮肉たっぷりに記しているところだ。
 「康熙帝による征服によって支那に平和が戻り、敵対行為が減少した結果、そしてまた、そのおかげでの、急速な人口増、土地開墾、更には農業に立脚した税収増により、彼は、まず、税の減免、次いで1712年の土地税と賦役全般の凍結、を・・・実施することができた。(もっとも、同王朝は、やがてこの財政政策によって苦しむことになる、)」
http://en.wikipedia.org/wiki/Kangxi_Emperor

 つまり、太宗にしても、康熙帝にしても、自分の権力を増大させ、安泰化させるために、被支配者達から税・賦役を収奪して軍事力等を整備、行使して、治安を確保し外患を絶った結果として、従前ほど税や賦役を確保する必要がなくなり、(太宗の場合、)従前ほど刑罰で締め上げる必要もなくなった、というだけのことなのであって、それらは、彼らが、人間主義的に被支配者のことを慮ったためでは全くないのだ。
 ちなみに、康熙帝も、「崩御まで皇太子を立てることはなかった。そのため皇位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられ<た>」という有様であり、「名君の制度的輩出システムの構築を怠ったどころか、晩年において、立太子問題を発生させた」太宗と余りに符合する無責任ぶりに、暗澹たる気持ちに陥らされる。
 つまり、支那史における最高の名君とされるこの二人にして、なお、どちらも、(毛沢東的な意味での)究極のエゴイストでしかないのであって、自分なき後のことなど野となれ山となれだ、という人物であった、と断ぜざるをえないのだ。

(続く、かな?)