太田述正コラム#7057(2014.7.14)
<米独立革命の起源(その2)>(2014.10.29公開)

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<脚注:ピルグリム>

プリマスまで登場したというのに、イギリスのイーストアングリアの食い詰め者ではないところの、ピルグリム達(Pilgrim)に、少なくとも引用した書評は言及していないので、ここで補っておく。
 彼らは、もともとは、1586年から1605年の間、イギリスの[ロビンフッド伝説で有名な]ノッティンガム州(Nottinghamshire)で、ピューリタン(カルヴィン派)信仰を、英国教会から切り離した形で抱いていた人々だった。
 1559年のイギリスの法律で、英国教会の諸儀典に参加しない者は罰金、隠れて勝手に諸儀典を行った者はより大きな罰金を科されるか投獄されることとされており、彼らも処罰された。
 それどころか、彼らの指導者2人は、1593年に反政府扇動の廉で処刑された。
 止むなく、1607年に、彼らはオランダのライデン(Leiden)に亡命的移住を行う。
 しかし、異郷での生活は楽ではなかったために、1620年、彼らは、イギリスのサザンプトンに渡り、そこでメイフラワー号(Mayflower)に乗り換えて、北米のプリマス(Plymouth)に到着する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pilgrims_(Plymouth_Colony)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nottinghamshire ([]内)
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 「<米独立革命の頃、>北米人達は、それまでの諸抗争(contests)の時にそうしたのと殆んど同じく、どちらかの側に立った上で、自分達が何を望んでいるかを<積極的に>表明した。
 田舎(backcountry)の北カロライナ人達に対するに商人達と低い海岸地帯の(tidewater)奴隷所有者達、公有地の不法占拠者達(squatters)と借地人達(tenants)に対するに西ペンシルヴァニア、メイン(Maine)、ニュージャージー、そしてハドソン渓谷の地主達、辺境人達(frontiersmen)に対するにインディアン達・・彼らにとっては、米独立革命は、単に、インディアン達と再度戦う機会に他ならなかった。
 しかし、物事はいつもそんなに単純ではなかったのであって、それぞれの側が何であるか、<それぞれの側が抱いている>諸大志が何であるか、もまた明確ではなかった。
 水夫達は英海軍と、奴隷達はそんなことをする勇気があり、かつ機会がひとりでに訪れた場合だが、ご主人様達と闘い、そして、都会の貧者はよりよい生活と完全雇用のために闘った。
 <また、>コンコード(Concord)<(注3)>の入植者達とその親戚であったニューイングランドの全ての村々、及び、他の諸植民地の他の田舎の村々は、自分達から失われつつあると感じたところの、コミュニティの感覚を回復するために闘った。

 (注3)マサチューセッツの町。「1635年に最初の入植が行われ、同年に町として発足した。<米>独立戦争の口火を切ったレキシントン・コンコードの戦い(1775年)で有名。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89_(%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%84%E5%B7%9E)

 ヴァージニアと二つのカロライナの福音主義的非英国教徒達(evangelical Dissenters)<(注4)>は、より大きな宗教的自由と州政府や地方諸問題でより大きな声を上げるのために闘った。

 (注4)ヴァージニア植民地では、長きにわたって、英国教が信仰を独占する状態が続いていたが、<幼児洗礼を認めず,成人して信仰告白をした人にのみ全身洗礼を行なうべきだと主張するhttp://ejje.weblio.jp/content/Baptist>バプティスト派(Baptist)等の福音主義的プロテスタント諸派が勃興し、英国教を圧倒するに至り、独立後の1790年までには、ヴァージニア州は、全米で最もバプテイスト派が強い州となった。
http://books.google.co.jp/books/about/Virginians_Reborn.html?id=R0RVN0vx50gC&redir_esc=y

 独立の中心たるドラマは、緩慢で、相互に繋がったところの、これらの種々の諸いざこざ(quarrels)全ての熱の高まりなのだ。
 スローターの説得力ある計量(metric)によれば、それは、仮に大英帝国が存在していなかったならば、北米諸植民地がそれに対して叛乱を起こすべくそれを発明しなければならなかったであろうところの、やがて1760年代前後に極めて速い速度(tempo)に到達した、150年間の長きにわたる諸いざこざなのだ。
 そして、これら全ての諸物語(accounts)において、植民地全てが<共通に>不満(discontent)を抱く場(locus)へ向かう趨勢が存在した。
 <その際>、ニューイングランド人達は、「干渉」を歓迎せず、また、英国政府からの武力による脅しに恐れをなすこともなかったのだ。
 また、彼らの共和主義(republicanism)<(注5)>は、矮小さ(pettiness)と契約上の諸義務についての不寛大な諸解釈に難色を示したところの、彼らの牧師達に悔しい思いをさせた、教会諸問題への積極的関与(participation)、の形をとった(translate)。

 (注5)「「リベラリズムの『自由』は国家からの非干渉という消極的自由であるのに対し、共和主義の『自由』は政治参加の自由であり、自治の自由なのである<ところ、>・・・共和主義において「参政権」とは自治の自由、積極的自由を行使できる者のみに限られた権利と捉えられた<ことから、>・・・財産で参政権を制限したり(制限選挙)、また女性や奴隷などに参政権が与えられないのが普通であった。
 このため有権者を広げようとする民主主義と、有権者を限定しようとする共和主義の思想的相違は、自由主義や国民主権、ひいては自由そのものの捉え方に関わる問題となり、独立後の<米国>・・・<や>フランス革命などにおいて重要な争点となっていった。・・・
 <米国の場合、後に、第4代大統領の>ジェームズ・マディ<ソ>ン<に代表される>・・・共和主義者は・・・共和党・・・<[第3代大統領のトマス・ジェファーソン]や第7代大統領のアンドリュー・>ジャクソ<ンに代表される>民主主義者は・・・民主党<をつくることになる>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%92%8C%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC ([]内)

 彼らは頻繁に互いに裁判を提起し合い、牧師館(manse)<(注6)>にどれだけの薪や食料を払わなければならないかといった諸事柄を巡って口論した(squabbled)。」(C)

 (注6)(スコットランド由来の)長老派等の牧師(minister)の居宅。
http://en.wikipedia.org/wiki/Manse

⇒英領北米植民地の住民は、その出自からして、裸の個人主義者達ばかりであり、彼らの社会は、まさに、ホッブス的弱肉強食の世界だった、ということです。そして、そうであったからこそ、安心立命を得るためにキリスト教信仰とそのあり方について、彼らは真剣にならざるをえなかった、と考えられるのです。(太田)

(続く)