太田述正コラム#7037(2014.7.4)
<欧州文明の成立(続)(その7)>(2014.10.19公開)

 次に言及すべきは、ルイ13世(Louis XIII。1601〜43年。国王:1610〜43年)です。
 彼の「父王アンリ4世は40年近くにわたったユグノー戦争を終わらせて国内を平定し、ナントの勅令を発してカトリックとユグノーの対立を一応は鎮めた・・・が、ナント勅令はユグノーに信仰の自由を保証しただけでなく、プロテスタント地域での軍事・政治の特権も与え、「国家の中の国家」と呼ばれる状態となり、根強い宗教対立とともに国内の不安定要因となっていた<ところ、>・・・ルイ13世はリシュリュー枢機卿[(Cardinal Richelieu)]を1624年に・・・宰相[(chief minister)]に登用し・・・懸案だったユグノー討伐に乗り出し・・・1628年、14ヵ月の包囲戦の末にユグノーの本拠ラ・ロシェルを陥落させ(ラ・ロシェル包囲戦)、ラ・ロシェル和議によりアンリ4世によって与えられたユグノーに対する政治的、軍事的特権を撤廃させた(信仰の自由は許容されている)<ことに加え、>・・・1635年、・・・三十年戦争にプロテスタント側で介入<す>・・・る<も>、戦争によって重税が課されて民は困窮し、民衆蜂起が各地で起こっている<が、>・・・ルイ13世は北アメリカ大陸<への植民政策を推進>し、<現在のカナダの東部において、>植民地を・・・拡大させ<た>」
http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_XIII_of_France
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A413%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) (基本的に英語ウィキの直訳)
という次第であり、彼の死の5日後の、スペイン領ネーデルランドとの国境近くのフランス領でのロクロワの戦闘(Battle of Rocroi。1643年)、フランスは、三十年戦争の一環としてスペインに大勝利を収め、欧州の中心はスペインからフランスに完全に移ることになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 及び上掲

 フランスの絶対王政を完成させたのが、ルイ13世の子のルイ14世(Louis XIV。1638〜1715年。国王:1643〜1715年)です。
 彼の事績は以下の通りです。
 「父の死後、幼くしてフランス国王に即位し、宰相ジュール・マザランの補佐を得てフロンドの乱[(The Fronde)]<(注3)>を鎮圧した。1661年に親政を開始すると・・・ジャン=バティスト・コルベール[(Jean-Baptiste Colbert)] を登用して中央集権と重商主義[(mercantilist)] 政策を推進した。・・・<中央集権に関しては、>国の最高機関である国務会議から王太后や王族・大貴族を排除し、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用するなどして・・・、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化した。<(注4)>・・・<また、重商主義政策に関しては、>保護関税政策を取り、・・・輸入を減らして輸出を増やす政策を行<い>・・・贅沢品の輸入を禁止または高い関税を課す一方で、輸出産業振興のために王立マニファクチュールの設立・・・<す>る<(注5)>などこれを保護・育成する施策を講じた。・・・対外戦争を積極的に行い、・・・<そして、>領土を拡張して権威を高めると、・・・王権神授説<(注6)>・・・を掲げ、絶対君主制を確立した・・・が、治世後半のアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った。・・・1685年、ルイ14世はナント勅令を廃棄し、プロテスタントの礼拝の禁止と改宗に応じない牧師の国外追放を定めたフォンテーヌブロー勅令を発した。改宗に応じないユグノーは国禁を犯して亡命し、その数は約20万人に昇り、その中には多くの手工業者や商人が含まれていた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_XIV_of_France
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)

 (注3)1648〜53年。「フランスにおける貴族の反乱としては最後のもので、貴族勢力は打倒され、絶対王政の確立につながった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
http://en.wikipedia.org/wiki/Fronde ([]内)
 (注4)「アメリカ大陸から銀が大量に流入することなどによって貨幣経済が進行し、新興の市民階級が台頭してきた。しかし、その市民階級も単独で政治や社会を動かす力はなかった。こうしたなかで、王権は市民階級の力を一部取り込み、封建領主を臣僚化し、国外的には常備軍を設けて教権や皇帝権に対抗しながら国内的には封建勢力の抵抗を抑えようとした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%A5%9E%E6%8E%88%E8%AA%AC
 (注5)タペストリー製造工場を1662年に買収し、翌年、ゴブラン・マニファクチュール(Gobelins Manufactory)を設立した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gobelins_manufactory
 (注6)Divine right of kings。日本語ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%A5%9E%E6%8E%88%E8%AA%AC 上掲
は、ジャン・ボダン(Jean Bodin。1530〜96年)とともに、ジャック=ベニーニュ・ボシュエ(Jacques-Benigne Bossuet。1627 〜1704年)に言及しているが、英語ウィキ
http://en.wikipedia.org/wiki/Divine_right_of_kings
は、ボダン
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Bodin
にしか言及していない。
 なお、ボダンは、名目的にはカトリックであり続けたが、主権の絶対性を唱え、法王庁の内生への介入を排除しようとした(英語ウィキ)が、この発想の根源にあるのも、やはり、ウィクリフに表れているところのイギリス的宗教観であり、また、ヘンリー8世によるカトリック教会との断絶を可能にしたイギリスの中央集権制であった、というのが私の考えだ。
 この際、日本語ウィキに「伊藤博文は立憲政治の前提として「宗教なるものありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一」(明治二十一年(1888年)憲法草案審議)することが必要であるとし<た。>」が載っていたので転載しておく。
 このくだりについての小室直樹の解釈は意味不明であり、かねてから私が指摘しているように、伊藤は、単純に、英国教会に相当するものを日本にも導入しようとしただけ、と解するべきだろう。

 以上、全般的に、下掲を参照しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Absolute_monarchy_in_France

 さて、英西戦争を、私は、最初で最後の、アングロサクソン文明対プロト欧州文明戦争・・プロト欧州側はスペインが主導・・である、と見ているところ、ルイ14世が敢行した、アウクスブルク同盟戦争War of the League of Augsburg((1688〜97年)(北アメリカではウィリアム王戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E7%9B%9F%E6%88%A6%E4%BA%89
とスペイン継承戦争(1701〜14年)(北アメリカではアン女王戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
は、(第二次英仏百年戦争という呼称もありますが、)私は、第一次アングロサクソン文明対欧州文明戦争・・欧州側はフランスが主導・・の1期と2期と見ているのであり、フランス王位を継承した、(ルイ14世の孫の)ルイ15世(Louis XV。1710〜74年。国王:1715〜74年)が敢行した、オーストリア継承戦争(1740〜48年)(北アメリカではジョージ王戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
と七年戦争(1756〜63年)(北アメリカではフレンチ・インディアン戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
は、その3期と4期と見ているのです。
 この戦争は、「フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地のほとんどを失<う>」(上掲)という形で、アングロサクソン(イギリス)側の勝利で終わるのです。
 その先がどうなったかは、ご承知の通りですが、この伝で申し上げれば、米独立戦争なる第二次イギリス(アングロサクソン)内戦をはさみ、フランス革命戦争(French Revolutionary Wars。1792〜1802年)/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD%E6%88%A6%E4%BA%89
ナポレオン戦争(Napoleonic Wars。1803〜15年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
(その間に米英戦争(1812年)が起こっている)は、第二次アングロサクソン文明対欧州文明戦争・・欧州側はフランスが主導・・ですし、第一次世界大戦は、第三次アングロサクソン文明対欧州文明戦争・・欧州側はドイツが主導・・、第二次世界大戦は第四次アングロサクソン文明対欧州文明戦争・・欧州側はドイツが主導・・である、ということになります。
 (第三次と第四次は、合わせて第三次、と捉えることもできます。)
 このことごとくにイギリスが勝利を収めた結果、欧州文明は事実上終焉を迎え、欧州大陸は、プロト欧州文明に回帰しつつ現在に至っている、と見るわけです。
 面白いことに、第一次〜第四次(ないし第三次)の文明間戦争の全てに英領北米植民地ないし米国が参戦しています。(第二次を除き、英領北米植民地ないし米国は、常にイギリス側に立って戦っています。)

(続く)