太田述正コラム#7035(2014.7.3)
<欧州文明の成立(続)(その6)>(2014.10.18公開)

 こうして、欧州にとって重大な脅威となったイギリスに対抗するために、フランス等が行ったのが絶対王政の確立です。
 これを理解するためには、その前史まで遡る必要があります。

 プロト欧州文明は封建社会の文明だったわけですが、フランスの歴代国王は、かねてより、この封建制を克服して、中央集権化することによって、国王権力の増大を図ろうとします。
 その際、最も参考になったのは、封建制社会であったことが(事実上)なく、昔から中央集権化されていた、隣国のイギリスであったことでしょう。
 イギリスの、そういった国情は、イギリス国王が、フランスの国内に領地を有する(限りにおいては)フランス国王の臣下でもあったことから、フランスの歴代国王は知悉していたはずです。
 まずは、そのイギリス国王のフランス国内領地を召上げなければ、中央集権化などありえないではないか、と考えたのでしょう、フィリップ4世(端麗王)(Philip IV(the Fair)。1268〜1314年。国王:1285〜1314年)は、1294年に、エドワード1世(Edward I)・・フランスではアキテーヌ公(Duke of Aquitaine)・・のイギリスと、エドワードに無理難題を吹っ掛けることで、次いで、1297年にイギリスと好を通じていて事実上独立していたところの、臣下のフランドル伯・・フランドルは欧州の毛織物生産の中心だったが、原料である羊毛をイギリスから輸入していた・・と、戦端を開きます。
 しかし、断続的に続いた戦争は長期化し、戦費調達に苦しんだフィリップは、いずれも彼の借金先であったところの、ユダヤ人達及びイタリアのロンバルディア出身の商人達を1306年に追放し、並びに、テンプル騎士団(Knights Templar)・・法王の庇護下にあって独自の権力を欧州中で振るっていた・・を1307年に取り潰し、この三者の財産を没収します。
 この間、フィリップは、禁じ手である、教会課税を始めるのですが、時の法王ボニファティウス8世(Boniface VIII)に強硬に反対され、1302年に、表見的にイギリスの議会に似た、三部会の前駆形態・・僧侶、貴族、パリの大ブルジョワからなる・・を初めて開催し、国をあげて法王に対抗する姿勢を示した上で、追っ手を差し向けてこの法王を憤死させた挙句、親フランスのクレメンス5世(Clement V)を法王に即位させ、1309年に、教皇庁を、ローマから、ナポリ王国のフランス国内の飛び地であったアヴィニョン(Avignon)に遷します。これが、それから70年続く、いわゆる「教皇のアヴィニョン捕囚」の始まりです。
 このように、大いにフランスの中央集権化を押し進めたフィリップでしたが、肝心のイギリスに対しては、事態を少しも進展させられないまま、1303年のパリ条約で和平を結ぶ羽目となり、この和平の担保として、娘イザベル(Isabella)をイギリスの皇太子(後のエドワード2世)に嫁がせるのですが、フィリップ死後、息子3人が相次いでフランス国王となったものの、男系が途絶え、イザベルは存命であったけれど、女子相続を認めないフランスの慣習(サリカ法)に照らし、イザベルの子のイギリス王エドワード3世にフランス王位継承権が移るのが筋であったことから、エドワード3世がフランス王位継承を主張して英仏百年戦争・・1337〜1453年ということになっているが、完全な終息は1475年)< http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Picquigny >・・が始まることになり、この間、フランスの中央集権化の動きは頓挫することになるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_IV_of_France
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%974%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)

 やがて、ルイ11世(慎重王)(Louis XI(The Prudent)。1423〜83年。国王:1461〜83年)の時に、英仏百年戦争が完全に終息し、その後、ブルゴーニュ公領の多くを併合することにより、フランスはフランス圏の統一にほぼ成功した
http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_XI_of_France
ところ、再び、フランスの中央集権化に向けて尽力したのが、フランソワ1世(Francis I。1494〜1547年。国王:1515〜47年)です。
 彼は、方言の域を超えた多数の異言語圏に分かれているフランスの共通語をフランス語と1530年に宣言し、更に、1539年には、ラテン語に代えて、フランス語を公用語に定めます。
 これは、1519年に、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世死去に伴う皇帝選挙に立候補するも1票も獲得できずに、スペイン王カルロス1世(マクシミリアン1世の孫)が当選し、カール5世として即位してしまったことに伴い、フランスがハプスブルク家によって周囲を囲まれてしまい、フランシスが(ラテン語が公用語である)欧州の覇者になる夢が断たれ、カール5世と対峙せざるをえなくなったことが引き金になった、と私は考えていますが、彼の念頭にあったのは、既に15世紀末に、ラテン語やノルマン英語/フランス英語に代わって英語が事実上公用語化していたイギリス< http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Norman_language >であったと思われます。
 しかし、フランソワの存命中に、宗教改革が始まり、フランス国内でも宗教戦争の前兆状況となり、
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_I_of_France
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
彼の死後に、前述した宗教戦争(ユグノー戦争。1562〜98年)が勃発したことに伴い、再び、フランスの中央集権化は頓挫してしまうのです。

(続く)