太田述正コラム#7027(2014.6.29)
<欧州文明の成立(続)(その2)>(2014.10.14公開)

 (2)過渡期について

 百年戦争で、戦争を生業とするイギリス側が、生業としないフランス側に最終的に敗れてしまった原因として、この戦争の間に、地理的意味での欧州の、そして恐らくは世界の、最初の国民国家であったイギリスに触発される形で、フランスにおいて、ナショナリズムの原初形態が芽生えたからである、と考えています。
 ジャンヌダルク(Jeanne d'Arc=Joan of Arc。1412〜31年)というフランスの一庶民たる救世主の出現は、まさに、フランスにおいて、このことを示したものである、というのが私の考えです。

 「12歳・・・のとき独りで屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの姿を幻視し、<イギリス>軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「声」を聴いた<。>・・・
 ヘンリー6世の摂政として<イギリス>の国政も担当していたベッドフォード公ジョンが1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、<百年戦争中の>その後のフランス軍の戦術に<プラスの>影響を与えた<ことを付け加え>ている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF
http://en.wikipedia.org/wiki/Joan_of_Arc (日本語ウィキはこの英語ウィキの直訳。以下同じ。)

 私は、イギリス側にも要因があったとしても、ジャンヌによってフランス側の士気が鼓舞されたことが大きかったと思うのです。
 「積極的な砲火の集中と正面突破作戦」なんて、要は、神がかりで真正面から攻勢をかける、というだけのことであり、フランス側の兵士達が神がかりになり、命を惜しまなくなった、ということだったのです。
 イギリス側にしてみれば、こんな神がかりのナショナリズムの原初形態など、集団発狂としか受け止められなかったことでしょう。
 しかも、そのような見方は、当時のフランス知識層一般の見方・・彼らは、そもそも、親イギリスだった・・でもあった、と私は見ています。
 イギリス当局の意向を受けて、ジャンヌ・ダルクの異端裁判を主宰したピエール・コーション(Pierre Cauchon。1371〜1442年)は、親イギリスのパリ大学の一般教養学(liberal arts)の優等生で更に教会法と神学を履修し、神父になったという人物であり、この裁判の時の専門家としての諸証言をもっぱらパリ大学の教授陣から得ていること
http://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Cauchon
がその根拠です。
 このコーションは、カトリック教会に対する侮蔑感についても、イギリス人一般と共有していたと考えられます。 
 だからこそ、彼は、下掲のように、カトリック教会が定める(彼が通暁していたはずの)異端裁判の諸手続きを、平気で無視して「裁判」を進めたのでしょう。

 「ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかった・・・。・・・コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議であるバーゼル公会議や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した。・・<また、>裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされ<た>・・・
 百年戦争の終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。ローマ教皇カリストゥス3世も公式に承認したこの裁判・・・の目的はジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。・・・開廷が公式に宣言されたのは1455年11月である。・・・ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされ・・・た<が>、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外に当たるとして、・・・、1456年7月・・・にジャンヌの無罪を宣告した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF 前掲

 コーションは、男装を禁止するカトリック教会の「教義」についてもバカにしていて、ジャンヌを断罪するための道具として、あえてこの「教義」を援用したのだ、と私は忖度しています。
 私は、ジャンヌの出現に伴う百年戦争での敗北が、イギリスにおいて、欧州との文明の違い、というか、欧州を野蛮と見る考え方、を生み出した、と考えているのです。

 さて、これからが本題です。
 14世紀央にイギリスでウィクリフの活躍/農民叛乱が起こり、それから1世紀半も経ってから、16世紀前半に宗教改革/ドイツ農民戦争、と欧州(ドイツ)で全く同じことが起こったように見えます。
 イギリスでのウィクリフの活躍は、ボヘミアのフスを通じて、欧州中に伝わり、強いインパクトを与えました。
 その一つの証拠が、フランスの一庶民たるジャンヌダルクまでもが、フス派を非難する以下のような言葉を残していることです。

 「1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた・・・。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF 前掲

 しかし、これは、イギリスの欧州と比較しての早熟性を意味する、というわけではありません。
 イギリスにおいては、ウィクリフの主張は、単にイギリス人の大部分が昔から抱懐している自然宗教観と経験論に起因するところの、カトリシズムに対する違和感を、若干理論的な形で提示しただけなのであって、イギリス人の大部分の宗教観に影響を及ぼすものではなく、現に、イギリスの農民叛乱も、複雑な要因がからみあってワット・タイラーが起こしていた叛乱を、ジョン・ボールがウィクリフの主張の一部を先鋭化することによって正当化し、更に煽り立てた、ということ以上でも以下でもなかったところ、欧州(ドイツ)においては、ルターらの主張は、それほど時間を置かず、カトリシズムに代わる小カトリシズム的新諸宗派の族生をもたらすとともに、ルターの主張が直接のきっかけとなって、トマス・ミュンツァーらが農民戦争を起こした、といったことからも分かるように、欧州での動きは、イギリスでのかつての動きをヒントにして起きたところの、異なった文明における、全く文脈を異にする異種の動きなのです。

(続く)