太田述正コラム#7015(2014.6.23)
<中東イスラム世界の成り立ち(その8)>(2014.10.8公開)

 (2)欧米文明継受

  ア 欧州文明部分的継受 

   ・オスマントルコのチューリップ時代 
    
 「18世紀前半のオスマン帝国の皇帝・アフメト3世[(Ahmed III。1673〜1736年。皇帝:1703〜30年)]の治世のうち、オスマン帝国が対外的な領土喪失と引き替えに和平を得た1718年から、アフメト3世が廃位される1730年までの期間」であり、「17世紀の西欧でのチューリップ栽培熱・・・が、アフメト3世時代のオスマン帝国に「逆輸入」され、チューリップの栽培が流行したことからこのように呼ばれる<ところの、>・・・西洋の制度を「優れた」ものと認めて採り入れるという態度が登場し始めた時代<であり、>・・・イスタンブルに造営されたサーダバード離宮に見られるような、当時西欧で流行したロココ様式に影響を受けた西洋趣味もこの時代の大きな特徴で<すが、>・・・1730年、イスタンブルで無頼の者となっていた元イェニチェリのパトロナ・ハリルを担いだ反乱(パトロナ・ハリルの乱)が起こると、・・・大宰相・・・ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャは殺害され、サーダバード離宮は暴徒によって破壊され<、>乱によってアフメト3世は廃位・幽閉され、チューリップ時代は終焉を迎え」ます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E6%99%82%E4%BB%A3
 補足しますと、「1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国はペロポネソス半島をヴェネツィアから獲得したが、セルビア北部とワラキアの西部をオーストリアに譲りバルカン半島の領土を再度失<います>。・・・
 1719年にイブラヒム・パシャはオーストリアのウィーンへ使節を派遣したのを始まりとして、1720年と1721年にフランスのパリ、1722年と1723年にはロシアのモスクワに使節を派遣して<欧州>と修好を結び、同時に使節に<欧州>に関する情報を集め<まし>た。・・・
 <ちなみに、>アフメト3世は退位後トプカプ宮殿に幽閉生活を送り、6年後の1736年に・・・亡くなっ<ています>。
 <ところで、>新政権を率いたマフムト1世は即位から1年後の1731年にパトロナ・ハリルら反乱軍首謀者を処刑して実権を取り戻すと、・・・オーストリアからはセルビアを奪回してオスマン帝国をある程度持ち直し<たところ、>文化事業は縮小されたが西欧導入政策も引き続き継続してい<きまし>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A1%E3%83%883%E4%B8%96 ([]内も)

⇒表面的な模倣にとどまったことはともかくとして、そもそも、私見では、(明治維新期の日本と違って、)アングロサクソン文明ではなく(プロト欧州文明から移行中の)欧州文明に範を取ったこと自体が問題なのであり、この出発点における判断ミスは禍根を残すことになります。(太田) 

 このマフムト1世(Mahmut I。1696〜1754年。皇帝:1730〜54年)は、「先代の皇帝アフメト3世の甥<ですが、>・・・彼の治世下で「徐々に腐敗が生じるようになり、<まず、>・・・宦官ハジ・ベシル・アー<が>強い影響<力を発揮し続けます>。またマフムト1世の治世以後、ワラキア公とモルダヴィア公にファナリオティスを起用することが定着し<ます>。イェニチェリ< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA >の腐敗も進み、イェニチェリ空席ポストの給料着服が行われたり、1740年にイェニチェリの株売買を認めると富裕層が買い占めたり、親衛隊としてのイェニチェリの軍事力は低下し<ます>。地方の分権化も徐々に進み、徴税請負制が終身契約として有力者に競売に出されると、購入者がそれを元に徴税をいくらか自らの収入に入れたり、土地の売買と開墾で地方に根付いたため、後にアーヤーンと呼ばれる地方有力者の台頭でオスマン帝国の支配は揺らいでい<きました>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%95%E3%83%A0%E3%83%881%E4%B8%96
 ちなみに、「ファナル地区は、コンスタンティノープル陥落後にオスマン帝国によって、もと聖ソフィア聖堂にあったコンスタンディヌーポリ総主教座が移された場所で<す>。このためオスマン帝国時代初期の15世紀以来この地区にはギリシャ系の正教徒たちがまとまって住み着くようになった<のです>が、彼らの中から経済的にはイスラム法で利子を禁じられている・・・イスラム教徒・・・にかわって・・・金融業に成功して富を築き、政治的にはオスマン帝国に役人として仕える家系があらわれるようにな<ります>。彼らは・・・ファナリオティス・・・(fanariot)・・・と総称され<まし>た。・・・
 のちにファナリオティスの一部が支援して誕生した秘密結社フィリキ・エテリアが1821年にルーマニアで蜂起したことをきっかけにペロポネソス半島のギリシャ人が反乱を起こしてギリシャ独立戦争が始まり、1830年に半島部のギリシャ王国としての独立を勝ち取<ります>。
 しかし独立戦争への関与はファナリオティスへの帝国の信任を失わせることになり、ルーマニア両公国の公への任命も打ち切られ<ます>。・・・
 オスマン帝国はファナリオティスに代わる通訳官として<イスラム教徒たる>トルコ人の若手官僚にフランス語など<欧州>の言語と学問を学ばせるようになり、やがて彼らがタンジマート<(後出)>の担い手として帝国の近代化を進めることにな<ります>。また、イスタンブルにおける金融業はアルメニア人が引き継いでゆき、19世紀末の大規模なアルメニア人迫害を迎えることになる<のです>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9

⇒脇道にまで入り込んでしまったのは、ずっと以前にも記したように、カイロ時代、私の小学校での親友の一人がギリシャ人、マンションの家主がユダヤ人、フランス語の家庭教師がトルコ人、ピアノの先生がアルメニア人であったところ、そのうち、ギリシャ人とトルコ人はかつてエジプトの支配者であったが故に、その末裔だろうと思い込んでいたのですが、ギリシャ人がエジプトの支配者であった時よりもはるか後代においても、ギリシャ人がオスマントルコの政治体制の一翼を担っていた時代があったが故に、その頃の末裔もまた、カイロにいた可能性があることが分かったこと、また、トルコ人の上澄みの中に、かつて欧州の共通語であったフランス語に堪能な人物がいても不思議はないと単純に思い込んでいたところ、トルコ人の上澄みには、積極的にフランス語を身に着けるインセンティヴが働いていたことを知ったこと、更には、アルメニア人は、単にオスマントルコに支配されていたので、オスマントルコ領のエジプト等にも進出したのだろうとこれまた単純に思い込んでいたのですが、アルメニア人がオスマントルコの経済体制の一翼を担っていたが故に、オスマントルコ領内の各地に進出した面があること知ったこと、で瞠目させられ、改めて、当時の懐かしい思い出が蘇ってきたからです。(太田)

  ・オスマントルコのタンジマート

 「タンジマート(・・・Tanzimat) とは、「タンジマーティ・ハイリエ(恩恵改革)」の略で、オスマン帝国が皇帝専制体制の下で西欧の市民社会の理念を導入する形で改革を目指したもので<す>。
 アブデュルメジト1世[(Abd-ul-Mejid I。1823〜61年。皇帝:1839〜61年)]は、・・・ギュルハネ勅令で、ムスリム・非ムスリムにかかわらず、全ての帝国臣民は法の下で平等であること、全臣民の生命・名誉・財産の保障、裁判の公開などを実現<し、>さらに、民衆を苦しめていたイルティザーム(徴税請負制度)は段階的に廃止<しまし>た。この改革の集大成が1876年に発布されたミドハト憲法であ<り、>これは、国会の開設など画期的な内容を持ってい<まし>た。
 ・・・1821年、ギリシャ独立戦争が始まり、最終的にはロシアの介入によってギリシャの独立は達成され<ます>。戦争中、オスマン政府は腐敗したイェニチェリ軍団を廃止し<まし>たが、戦後にはエジプトのムハンマド・アリーがパシャの称号やシリアの割譲を要求するなど、帝国の威信はますます低下してい<まし>た。<そこで、>・・・アブデュルメジト1世は<【1839年に】>外務大臣のムスタファ・レシト・パシャに命じてタンジマート改革に着手させた<のです>。
 この改革の精神は帝国の中央ではともかく、地方では全く理解されず、かえって民衆の不満を拡大<してしまい、>1838年に結ばれたトルコ・イギリス通商条約以降、<欧州>諸国のトルコへの経済的進出も激化した<結果、>76年に即位したアブデュルハミト2世はミドハト・パシャを追放し、露土戦争敗北後〈の1878年に〉憲法を停止した<のです>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B8%E3%83%881%E4%B8%96 ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Tanzimat (【】内)
 ちなみに、ミドハト憲法で、「オスマン帝国の君主はオスマン家の当主によって世襲され、世俗政治の最高権者であるスルタンと、ムスリムの宗教的な指導者であるカリフの権能を兼ねることが明文化され」ています。いわゆるスルタンカリフ制です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%AE%B6
 また、アブデュルハミト2世(II. Abdulhamit。1842〜1918年。皇帝:1876〜1909年)は、「1876年、《アブデュルメジト1世の弟<で、そ>・・・の後を継いで即位<した>》叔父アブデュルアズィズがミドハト・パシャによってクーデターで廃され、その後を継いだ兄ムラト5世も精神疾患ですぐに退位したため、新皇帝として擁立された」ものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%882%E4%B8%96 (〈〉内も)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%82%BA (《》内)

⇒そもそも、オスマントルコは、イスラム教徒たる臣民を圧倒的に多く抱えていたとはいえ、文化や発展段階を異にする多数の民族から成り立っていたので、単一の憲法で全民族を律することは不可能に近かった上、圧倒的に多かったイスラム教徒たる臣民のうちの多数からすれば、シャリーアに反する憲法以下の欧州的法制は反発の対象以外の何物でもなかったはずです。
 また、そういったことをさて措くとしても、既に示唆したように、アングロサクソン文明ではなく欧州文明を継受しようとしたこと自体が判断ミスであった上、オスマントルコ社会は、例えば、欧州文明を羈束している超越的規範と演繹科学的論理(コラム#6974)とは基本的に無縁であったのですから、タンジマートは失敗すべくして失敗した、と言うべきでしょう。(太田)

(続く)