太田述正コラム#7005(2014.6.18)
<中東イスラム世界の成り立ち(その6)>(2014.10.3公開)

<脚注:スンナ派(スンニ派)とシーア派、そしてカリフ>

 「シーア派はムハンマドの従兄弟・娘婿のアリー<・イブン・アビー・ターリブ>とその子孫<(注7)>のみが女系でも男系でもムハンマドに最も近縁であり、唯一ムスリムの指導者たる資格があると主張した。対してスンナ派は初期カリフがクライシュ族内から互選で選ばれたことから、ムハンマドとの血縁の近さは必ずしも絶対的なものではないとし、クライシュ族であれば多少血縁が遠くても良いとする。そのためややムハンマドとは血縁が薄いウマイヤ朝、アッバース朝の統治を認めた。またスンナ派世界では後にはクライシュ族でなくともカリフを名乗るものが出始め、最終的にはトルコ人のオスマン家がカリフを称するに至ったため、クライシュ族の血の論理も崩壊したといえる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E6%97%8F

 (注7)「ハーシム家<(ハーシェム家)は、>・・・ムハンマドの曽祖父ハーシム(西暦500年頃没)の一門。クライシュ族に属する。アッバース朝もこの一門から出た。
 ハーシムの息子アブドゥルムッタリブにはアブドゥッラーフ、アブー=ターリブ、アッバースら息子たちがいた。この内、アブドゥッラーフの息子ムハンマドは男児に恵まれぬまま末娘ファーティマとその夫でアブー・ターリブの息子のアリーとの間にのみ血統が残ったため、実質、ハーシム家はアリー家を含むアブー・ターリブ家とアッバース家に大きく分けることができる。
 アブー・ターリブ家にはアリーの他にジャアファル、アキールの家系があり、アリー家にはファーティマとの間に儲けた二人の息子、ハサン、フサインがおり、特にこれをファーティマ家と呼ぶ場合もある。アリー家には他にムハンマド(・ブン・アリー)、アッバース(・ブン・アリー)、ウマル(・ブン・アリー)の家系がある。
 ハーシム家をはじめ、預言者ムハンマドやアリーの一族は歴史的にムスリム社会で敬意を受け、さまざまな尊称で呼ばれて来たが、特に預言者の血筋を引くファーティマ、アリー家の人々の場合、おおよそフサイン家の成員をサイイド(シーア派のイマームはこの系統)、ハサン家の成員をシャリーフという尊称が用いられて来た。・・・
 ハサンの末裔・・・と主張する・・・ハーシム家<は>・・・10世紀以来、マッカのシャリーフ(宗教的指導者)およびアミール(地方総督)を務めていた<ところ、かつてのイラク王国の国王および現在の>ヨルダン・ハーシム王国の国王はハーシム家である。・・・
 また、同じハサン家末裔を自称する<王家>にモロッコ王国王家・・・があ<る。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A0%E5%AE%B6

 アリー・イブン・アビー・ターリブ(600年頃〜661年)は、「預言者ムハンマドの父方の従弟<だが>、彼の母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年に・・・暗殺される。
 のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%96

⇒英国が、第一次世界大戦でオスマントルコから獲得したイラクにハーシム家の王朝を打ち立てたのは深謀遠慮に基づくものであったわけだ。
 対イラク戦の後、このイラク王国を再興する、という方策は、もっと追求されてしかるべきだった。(太田)

 ウマイヤ朝(661〜750年)は、「イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督ムアーウィヤが、661年に自らカリフとなることにより成立した政権。都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲されたため、ムアーウィヤ(1世)から<始まる>14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。・・・
 カリフ位の世襲制を採用した最初の王朝形の政権であり、ムスリムであるアラブ人による集団的な異民族支配を国家の統治原理とする一方、非アラブ人はズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせるアラブ人至上主義を敷いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%9C%9D

 「ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の・・・運動が広がった。こ<れ>はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動で<も>あ<った>。
 <それまで>にもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ・・イスラム諸王朝における人頭税・・
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%BA%E3%83%A4 >
の支払いを強制され・・・、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。
 こうした不満を受けてイラン東部・・・において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年1月、アッバース軍がザーブ河畔の戦い・・・でウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝<(750〜1258年)>が建国された。<その際、>ウマイヤ朝の王族・・・の一人が逃げ延び、・・・後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国し・・・た。
 <ところが、>シーア派の力を借りてカリフの座についた・・・アッバースは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。・・・<そして、その上で、>クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ・・・とアラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃<し>た。
 アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。つまり征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたのであるが、そうした変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラーム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D

⇒これが、カリフ復活を唱えるところの、アルカーイダやIsisのようなスンニ派過激派集団が抱く、カリフ座(caliphate)のイメージである、と思えばよかろう。(太田)

 「アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年には<シーア派の>ブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年 にはブワイフ朝を滅ぼした<スンニ派の>セルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D
 ブワイフ朝(932〜1062年)は、「カスピ海南岸の山岳地帯・・・出身の豪族で、シーア派の一派十二イマーム派を奉ずるブワイフ家が興した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%95%E6%9C%9D

 その後のシーア派の進展も押えておこう。
 「ムスリムたちの共同体をイスラム共同体(ウンマ)と言うが、ウンマの指導者は血統上の理由により預言者ムハンマドの従弟で娘婿であるアリーとその子孫のみが相応しいと考える人々がシーア派である。シーア派は、アリーの子孫のみがウンマの長たるに相応しい理由として、ウンマを政治的・宗教的に指導する者は神(アッラーフ)の言葉であるクルアーンを正確に解釈できる者でなければならず、クルアーンを正確に解釈できる者は地上に使わされた最後の預言者であったムハンマド以降では、ムハンマドの家族であるアリーとその子孫だけであると考えている。このような、アリーとその子孫だけが持つことができるクルアーンを正確に解釈しウンマの正統な長となるべき人物のことを、シーア派ではイマームと呼ぶ。シーア派の諸派のうち最大多数派である十二イマーム派などは、イマームは無謬であり、クルアーンの解釈からイスラム法(シャリーア)の制定に至るまで様々な宗教上の理解事項は無謬であるイマームの教えによらなければならないと考え、預言者と歴代のイマームたちの言行に関わる伝承に従う。・・・
 9世紀<には>イスマーイール派<によって、>一般の信徒たちには触れることのできない幽冥の世界にお隠れになり、最後の審判のときマフディー(メシア)として再臨するまで死ぬことなくイマームの位を保ちつづけていると考える理論を生み出した。これをガイバ(幽隠)という。・・・
 <やがて、>十二イマーム派もガイバの理論を受け入れた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0 

⇒シーア派において、イスラム教も救世主思想を生み出したということだ。(太田)

 アラウィー派は、「主にシリアの山岳地帯に分布する。アラウィーはアラビア語で「アリーに従う者」<を>意味<する。>・・・イスマーイール派やキリスト教にシリア地方の土着宗教の要素があわさったと考えられる独特の教義を持つ。女性に魂はないとされるため、教義は男性のみのサークル内の秘伝とされ、神秘主義の色彩が強い。
 「正統派」イスラムとは異なり、神(アッラーフ)は人間の姿をとって現れることがあるとする。アリーは神が地上に現した最後の姿であると考え、神格化される。また、アリーは「本質」を意味し、「名」(宣教者)であるムハンマドと「門」(解釈者)であるサルマーンという不可分の要素である2名の人物とともに地上に現れたのだとする一種の三位一体思想を持ち、それぞれを月・太陽・天空になぞらえて信仰する。
 また、生前に善行を積めば死後ほかの人間に、悪行を重ねれば動物に生まれ変わるというインドの輪廻に似た転生思想や、キリスト教から取り入れたと考えられる聖霊の祝祭なども他のイスラム教宗派との大きな相違点である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E6%B4%BE

⇒シーア派過激派集団のIsisが、シリアの「シーア派」のアラウィー派/レバノンのシーア派ヒズボラ、及び、イラクのシーア派と戦っている、現在進行形の構図の背景の一端がお分かりいただけただろうか。(太田)
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(続く)