太田述正コラム#6995(2014.6.13)
<米国と支那は似ている?(その3)>(2014.9.28公開)

私が、最近、私の北京の学生達に、支那のプラグマティズムを説明してくれるように尋ねた時、私は、彼らが、トウ小平(Deng Xiaoping)の有名な、経済イデオロギーの却下(dismissal)であるところの、「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」を引用することを期待していた。
 しかし、彼らは、はるか昔の孔子に戻って、<(注10)>彼が、我々はどうやって鬼神(ghosts and spirits)に奉仕し(serve)たらよいのか聞かれた時、孔子が、我々は、まず第一にどうやって人間に奉仕したらよいかを考えるべきだと答えたことを想起せよとした。

 (注10)原文は、「樊遅問知。子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣」」、すなわち、「樊遅(はんち)知を問ふ。子曰く、「民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)ふ可(べ)し」」
http://www2.odn.ne.jp/kotowaza/BBS/RONGO-4ji-igai/59-kisinwo-keisite.htm
であるから、(樊遅による)質問の部分が間違っている。筆者は、「哲学者」としていかがなものかと思うが、あやふやな記憶に頼ってこのコラムを書いたようだ。

 すなわち、我々は、ここ、そして現在、の諸問題を解決した上で、その後で超自然的な領域の心配をすべきだ、というわけだ。・・・
 <(孝行については省略したが(太田)、)>前に出てきた、孝行(filial piety)と紅包の例は、支那人の倫理のプラグマティックな本性(nature)を顕現しているが、それは単なる得策(expedient)ないしは好都合(convenient)であるというわけではない。
 (そもそも、孝行は、全くもって好都合なものであるはずがない。)
 関係、なる社会的毛繕い(social grooming)を行うのは、利己性<に基づくの>ではなく、相互性(reciprocity)<に基づくもの>なのだ。
 米国人達はそれを「賄賂(bribery)」として却下するけれど、それらは、<自分の>集団とその成員達を裨益する人々と相互的な諸紐帯をつくる(place)ものなのだ。
 それが問題となるのは、その毛繕いが相互的なものにならなかったり、過度であったりする場合においてだけだ。
 つまり、それは度が過ぎれば良くないということであって、本質的(intrinsically)に、或いは、絶対的に良くないということではないのだ。
 これとは対照的に、米国人の倫理(及び米国の外交政策)は、その考え方(perspective)において、なお、過度に宗教的であり、我々の民主主義的諸伝統でさえも、教義的(domatic)な嗜好(gusto)でもって主張される。
 何度も指摘されてきたように、神が自分の側にあると考える誰かは、殆んど何事でもやってのけることができる。
 もちろん、我々は、最近、無神論者達でも同じくらい教義的たりうることを目撃してきたのであり、支那自身が、毛沢東の時代にこのことを証明した。
 しかし、支那は、現在、大きく変化しており、(宗教的であれ無神論的であれ、)教義主義はより大きな問題であるとのプラグマティックな洞察と、より提携(align with)している。」
 
3 終わりに

 筆者が最後に指摘した点については、私も同意です。
 米国人は、公私を峻別した上で・・ここまでは日本人と同じです・・、私の領域においては、私的利益の追求をもっともらしい何らかの教義でもって正当化するとともに、公たる国家の外交政策においても、国益の追求を、もっともらしい何らかの教義でもって正当化するのに対し、支那人は、公私を峻別することなく、しかし、何らかの教義を持ち出すこともなく、仮に持ち出したとしても、その教義の支離滅裂性を意に介することなく、個人/集団は私的利益の追求をごり押し的に行い、国家はその外交政策において、国益の追求をゴリ押し的に行うわけです。
 より直截的に申し上げれば、米国人はウソをつく、が言い過ぎであれば、偽善的である、のに対し、支那人は正直である、ないしはけれん味が少ない、わけであり、この限りにおいては、支那人の方により好感が持てます。
 しかし、この筆者が指摘していないことがあります。
 米国人に関しては、彼らがアングロサクソン文明と欧州文明のキメラたる米国文明の担い手であることから、その私的利益や国益の追求が、アングロサクソン文明の人間主義的なものによって拮抗されているとともに、欧州文明の超越的規範と演繹科学的論理によっても羈束されている(コラム#6974)ことです。
 一方、支那人に関しては、彼らは、私的利益や国益の追求を、何物によっても、拮抗されたり羈束されたりしていません。
 (「情」は超越的規範ではなく、「理」も演繹科学的論理ではありません。
 つまり、支那人は状況倫理しか持ち合わせていないわけです。)
 ですから、我々日本人としては、米国人も支那人もどっちもどっちである、と断ぜざるをえません。
 結局のところ、どちらの方が、より早く、その大部分を全面的に人間主義化できるかの勝負である、ということになります。
 ご承知のように、支那の方は、中共当局が、シャカリキに、支那人の全面的な人間主義化を追求しつつあると考えられることから、支那人の方がこの勝負に勝利を収める可能性が現在のところは大である、と私は見ている次第です。

(完)