太田述正コラム#6987(2014.6.9)
<中東イスラム世界の成り立ち(その2)>(2014.9.24公開)

 以下、
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88
B:http://en.wikipedia.org/wiki/Egypt 前掲
に拠っています。

一、ペルシャ人

 「3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、<BC>525年にアケメネス朝ペルシアに支配された。」(A)
 これ以降、1952年までの2500年弱にわたって、エジプトの支配者は、民族的な意味での非エジプト人であり続けることになります。
 このペルシャ人支配の痕跡だけは、エジプトに殆んどありません。

二、ギリシャ人

 BC「332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し」ます。(A)

 つい最近まで、エジプトにはギリシャ人がたくさん住んでいました。(B)


三、ローマ人

 「プトレマイオス朝は<BC>30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。」(A)

 「豊かな穀物生産で<ローマ>の繁栄を支えた」とは、ローマに収奪された、ということです。
 エジプトという地域(国)名ないし民族名は、ローマ人が名付けたことと、この時点でエジプト人の大部分はキリスト教徒に改宗したことが重要です。
 アレキサンドリア・・ギリシャ期とローマ期にはエジプトの首都だった・・には、19世紀まで、イタリア人の大きなコミュニティがあり、同市の公用語はイタリア語でした。(B)

四、アラブ人

 エジプトは、「639年にイスラム帝国<(ウマイヤ朝)>の[アラブ人]将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され」ます。(A)
 
 「アムルは教義問題をめぐってコンスタンティノープル教会と対立していたコプト派キリスト教徒を味方につけ」て
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B9 ([]内も)
東ローマ軍を撃破し、エジプトのイスラム帝国への併合に成功します。
 しかし、ウマイヤ朝カリフの「ウマルはアムルがエジプトから十分な収益を上げていないと考えて、上エジプトに別の総督を任じ、後継カリフのウスマーンはアムルをエジプトから召喚し」ました(同上)。
 以上から、二つのことが分かります。
 コプト派が今日までエジプトで小さいながらも有力宗派として生き残ることができたのはこのようなアラブ人支配の立ち上がり時の経緯に拠るらしいことと、アラブ人支配下でも、当初の短期間を除き、エジプトが、引き続き、収奪の対象にされ続けたらしいことです。
 なお、現在に至るエジプトの首都カイロの原型が作られたのは、このアムルによってです。(上掲)
 また、このアラブ人支配を契機に、エジプト人の大部分は、イスラム教徒へと2回目の改宗を行うとともに、その言語も次第にエジプト語からアラビア語に切り替わって行き、エジプト語は、コプト派キリスト教徒の間だけに残って現在に至ることになります。(B)

 これ以降、エジプトは、「ウマイヤ朝<の後継の>・・・アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝・イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服され」る(A)のですが、この間、支配者がアラブ人であったことには変わりがありません。
 ちなみに、エジプトが西方から征服されたのは、エジプトにおける唯一のシーア派朝であったファーティマ朝の時だけです。

五 クルド人

 「1169年、<クルド人の
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3 >
サラーフッディーン(サラディン)が、ファーティマ朝の軍最高司令官と宰相の地位を兼任し、年内までにエジプトにおける全権を掌握して、アイユーブ朝を創設した。1171年、ファーティマ朝の第14代カリフ・アーディドが死去すると、ファーティマ朝を完全に滅ぼし、名目上はアッバース朝に臣従するという形式のもとにスルタンを称した。このため、アイユーブ朝の成立は1171年説もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%96%E6%9C%9D
 「1187年、・・・<このサラディンが>エルサレム王国に侵攻し、・・・約90年ぶりのエルサレム奪回を果たした・・・。このため、1189年からイギリス王・リチャード1世を中心とした第3回十字軍の反攻を受けた・・・が、・・・1192年、和睦を結ぶにいたった。この和睦により、エルサレムをはじめとする領土のほとんどはアイユーブ朝の支配圏として確立することとな」った(上掲)のは有名な話です。
 「<サラディン>の治世により、ナイル川の整備や用水路の新設、そして農業の奨励などでエジプト国内は充実し、国際貿易の中心地になったと言われている」(上掲)というのですから、サラディンの短い治世(1169/1171〜93年)の間も、エジプトは例外的に収奪されなかったようです。

六 チェルケス人等

 「サラディン<は>・・・自身の子飼いの兵士からなる信頼できる軍隊を編成するために、クルド人やマムルーク・・イスラム世界における奴隷身分出身の軍人・・を集めて大規模な騎兵軍団を編成した。・・・
 <このマムルークが、後に、>アイユーブ朝のアイユーブ家に代わる<自分>たちの政権としてマムルーク朝を樹立する。・・・
 14世紀に入ると、中央アジアでのモンゴル帝国支配の安定と、モンゴルのイスラム化にともなって、イスラム世界に組み込まれたモンゴル帝国の継承政権(ジョチ・ウルスやティムール朝)からのテュルク系マムルークの購入が難しくなった。かわって、マムルークの購入先としていまだキリスト教徒や多神教徒が数多くいたカフカスがマムルークの供給源として重要となり、北西カフカスのチェルケス人からマムルークとなる者が増えた。マムルーク朝の後半期であるブルジー・マムルーク朝は、別名をチェルケス・マムルーク朝というほどである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF
 1422年から38年まで<ブルジー・マムルーク朝の>スルタンだったチェルケス人(Circassians)のバルスバーイ(Barsbay)の治世中に、飢饉とペストにより、人口が激減し、数世紀前に比べて町の数が5分の1になった
http://en.wikipedia.org/wiki/Mamluk#Bahri_Dynasty
http://en.wikipedia.org/wiki/Barsbay
とされているところ、ここから、マムルーク朝(1250〜1517年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
の統治の苛烈さが透けて見えてくる、というものです。
 なお、アイユーブ朝からマムルーク朝への移行期の混乱の中で、マムルーク達が団結して、シリアに来寇したモンゴル軍を1260年に破ったことで、エジプトがモンゴル人の支配を受けることは免れることとなり、また、「マムルーク朝の事実上の建設者となったバイバルス・・・の時代にアッバース朝の末裔・・・を首都カイロで名目上のカリフに立て(マムルーク朝におけるカリフとスルタンの関係は、日本史における天皇と征夷大将軍の関係に例えられることもある。又はカトリック教会における教皇と神聖ローマ皇帝<(注2)>)、またイスラム教の三大聖地であるメッカ(マッカ)、メディナ(マディーナ)、エルサレム(クドゥス)の保護者としてイスラムの慣習に則った支配者としての権威を保証し、当時のスン<ニ>派イスラム世界における盟主となった」(上掲)ところです。

 (注2)日本の場合、ヤマト王権確立後は、聖俗の分離ではなく、基本的に俗(俗世界)における最高権威者と最高権力者の分離であるので、カリフとスルタン、ないしは法王と皇帝、の関係とは根本的に異なる。

 また、「マムルーク朝<は、>・・・一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。」(上掲)のは、「マムルーク<が>、多くが幼少の頃から乗馬に親しんでいる騎馬民の出身」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF 前掲
だからこそでしょう。
 私の言う、遊牧民の民主主義性です。
 もとより、マムルーク朝における「民主主義」は、支配階層たるマムルーク達の間だけのものでしたが・・。

(続く)