太田述正コラム#6983(2014.6.7)
<長い19世紀(その6)>(2014.9.22公開)

 (5)民主主義

 「オステルハンメルは、ナショナリズムに対する懐疑(skepticism)と同じくらい、民主主義に対する諸疑義(doubts)を抱いている。・・・
 政府の共和制形態は、1914年・・その年には・・・君主制諸国が政府の支配的形態だった・・に至るまで、殆んど完全に南北アメリカ諸国に限定されていた、というのだ。
 1914年より前には、男性普通選挙でさえ、例外的であり続けていた、と。
 しかも、それを実践していた諸国でも、しばしば、様々な形態の人種的例外や除外を設けていた。

→イギリスは、元来、反民主主義的であったにもかかわらず、欧州は、対イギリス劣等感を解消するために、民主主義をイギリスより早く実現しようとして、結果的に各種民主主義独裁を生み出すこととなった、というのが私の見解である(コラム#省略)ところ、オステルハンメルも同様な認識であるとは全く思いませんが、結論だけをとれば、私は、彼に完全に同意です。(太田)

 この聖像破壊者的モードを続け、オステルハンメルは、19世紀末の女性運動(women's movement)について、それが、社会主義運動を顕著に凌駕するところの、最大かつ最重要な国際政治組織の形態であった、と感知する。
 もっとも、私は、<彼の>この判断には賛同致しかねるが・・。」(C)

→これは、二つの運動組織の規模に係る事実認識の問題であることから、いささか脇道に逸れますが、一言。
 欧州の社会主義運動、要するにマルクス主義運動という、文字通り民主主義独裁の実現を目指す運動を、私は全く評価していませんが、この運動に対抗する必要上、欧州で福祉国家化の動きが始まったことを考えれば、逆説的ではあれ、社会主義運動にも一定の評価はしなければならないでしょう。
 もっとも、欧州諸国の福祉国家化も、イギリスの福祉諸制度の継受であったわけで、単に、社会主義運動は、この継受を促進しただけですが・・。
 (この話は、いずれ、改めて取り上げたいと思います。)
 なお、この書評子はイギリス人であると目されるところ、女性運動に対する関心が、欧州人たるオステルハンメルより顕著に低いように思われるのは、イギリスと比較しての欧州の当時の女性差別の相対的なひどさに対するこの書評子の感度が鈍いからではないでしょうか。
 (この話も、もう少し、具体的事実を踏まえて論じる必要がありそうですが・・。)(太田)

 (6)自由主義

 「オステルハンメルは、いつもではないが、しばしば、立憲主義と結びついているところの、諸権利の平等と法の支配に向けての趨勢が、この世紀における最重要な政治的諸発展であると見る。」(C)

→「法の支配」がオステルハンメルの言葉なのか書評子の言葉なのか判然としませんが、欧州において、イギリス流の「法の支配」に向けての趨勢が、19世紀に見られたとは考えられません。
 現在でも、欧州諸国には、法治主義はあっても、法の支配はない、と私は考えているからです。
 なお、「諸権利平等」とは「人権」のことだとすれば、それは、確かに、19世紀に、「立憲主義」と手を携えて欧州諸国に浸透した、と言えそうです。
 というか、憲法がなく、従って「立憲主義」もありえなかったイギリスとは違って、欧州諸国においては、「人権」の浸透、確立のためには憲法の必要性を唱える「立憲主義」が不可欠であった、ということです。(太田)

 (7)米国とドイツ

 「(EU加盟国<たるドイツ>の一市民が行う主張としてはとりわけ仰天されるところの、)米国が1860年代以来原理的に(fundamentally)保護主義的であり続けた、或いは、第二次大覚醒(Second Great Awakening)<(注7)>以来単一の長期にわたる継続的苦悶の中にあり続けた、といった、米国史の長続き(longue duree)についての、いささか誇張された(hyperbolic)諸主張<もなされている。>

 (注7)1800年〜1830年代の米国における、再度のキリスト教再生運動(revival)。「後に刑務所改革、禁酒、女性参政権、奴隷制撤廃運動に至った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E9%86%92
 ちなみに、第一次大覚醒は、「1730年代と1740年代に<北米英領>植民地、特に北東部の13植民地に広まった宗教再生運動」(コラム#3620)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E9%86%92

→第二次世界大戦終了時まで、米国は、建国以来、一貫して保護主義的だった(コラム#省略)のであり、また、米国は、植民地時代から、北部においては、そして、その後は南部においては、原理主義的キリスト教の強い影響力の下にあり続けた(コラム#省略)のであり、これらの点での書評子のオステルハンメル批判は成り立ちえません。(太田)
 
 オステルハンメルは、ドイツが、英国と米国と合わせて、1910年の世界石炭生産と鉄鋼産出のどちらも80%を占めていたと記す。
 1900年前後に「工業諸社会(industrial societies)」と特徴づけられてかろうじてサマになったのは、この三か国だけだったとも。<(注8)>

 (注8)1913年においても、日本の「鋼材生産量は・・・255,000t」にとどまり、そ「の生産量は国内需要の34%に過ぎず、また価格は・・・輸入価格の方が割安であった。・・・鉄鋼業が活況を呈したのは・・・第一次世界大戦の勃発によ<って、>・・・輸入が先細りとなり価格<も>・・・高騰した<からだ>」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane1955/51/8/51_8_1347/_pdf
というのだから、オステルハンメルの言う通りだ。
 しかし、その日本の鉄鋼生産が、その26年後の1939年には、米国(4938万t)、ドイツ(2533万t)、ソ連(1880万t)、英国(1319万t)、フランス(622万t)、に次ぐ世界第6位(581万t)へと躍進した
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/30350017.html
のだから、その間の鉄鋼を含む、日本の経済成長率がいかに高かったかが分かろうというものだ。

 かかる観念は、この著者が、長い19世紀の間における工業化の全球的役割を矮小化(downplay)していることと、きれいに合致する。」(C)

(続く)