太田述正コラム#7177(2014.9.13)
<皆さんとディスカッション(続x2384)/セミナー4:隣国のロシア、そして中国>

<太田>(ツイッターより)

「iPS細胞使った移植手術に成功 理研が世界初…」
http://digital.asahi.com/articles/ASG9C5QJKG9CPLBJ005.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASG9C5QJKG9CPLBJ005
高橋氏にも理研にも喜ばしいことだ。
 患者の予後も順調であることを祈る。
 しかし、例えばこの朝日電子版記事、せっかく手術の図解まで付けながら、眼球の裏の手術方法が分からんぜよー。

八幡市でのセミナーは、天候も良く、(相変わらず年配の人ばかりだが、)聴衆が60名を超える大盛況。
 質疑応答もこれまでに比べて噛み合ってきた感じ。
 だけど、関西オフ会幹事志望者を募ったところ、手をあげる人なし。残念ー!。
 次の10月11日が最終回だが、あっという間に時間が経ってしまった。

<XyYMtAnH>

≫ここで、不二一元論を含め、ヒンドゥー教についておさらいをした上で、上記インタビューに登場したハリス批判を行っておこう。≪(コラム#7175。太田)

 仏教は不二一元論ではなくて而二不二(二にして二ならず)、不二而二(二ならざれども二なり) 。
http://www.seeland.org.tw/www/zhiyu/book/book_revised/sb12-009.html

<太田>

 私は、「ヒンドゥー教を仏教的に再編した」と言ってるんであって、「仏教化した」とは言ってませんよ。
 ところで、『維摩経』の中に、梵(的なもの)と我(的なもの)を不二法門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%91%A9%E7%B5%8C
の例(対象)として挙げてる箇所はあるんですかね?


 本日の記事の紹介は、明日回しにします。
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           第4回 隣国のロシア、そして中国

★今後のこと

★用語の混在について

 イギリス/英国、イングランド/イギリス、アメリカ/米国、中国/支那、中国/中共
 ルーズベルト/ローズベルト(/ローズヴェルト)

★引用コラムについて

 毎日、原則、2本のコラムを書いているが、そのうちの1本は即日公開し、もう1本は3か月半後公開しているため、現時点ではまだブログ上で読むことができないものがある。

★4歳から14歳までピアノ。大きな影響受ける(知情意面、日本観、対米観、本日の露・中観(後述)、等)。

★インターネットの楽しさ・不可欠性

★日本、アングロサクソン、欧州各文明に比べると、本日のロシア、中国、最終回の中東アラブ、インド各文明については、率直に言って私の主張の根拠は相対的に薄弱だが、それは、それぞれの地元において、学問の自由がないか不十分であったり、学問に係るインフラや資金が不足していたり、政情が不安定だったりしているために、自分達の社会についての考古学的・歴史学的・政治学的研究が遅れていることが、私が参照している、日本人や英米人によるこれら社会についての研究の足も引っ張っているからだ。
 とりわけ、本日の中国の話の現在の部分は論理的推論でしかないことに注意。

V ロシア・中国

 1 ロシア

  (1)ロシア亜文明史

 「ロシア亜文明について」シリーズ(コラム#7065、7088、7092、7094、7096、7098))、「ロシアとナショナリズム」シリーズ(コラム#7140、7142)、及び、スライド参照。

 ポイントは、第一に、2世紀半近くにわたって、略奪と奴隷化の恐怖に晒され続けたことが、ロシア人を骨の髄から安全保障フェチへと変貌させ、彼らは、安全保障上の内外の緩衝地帯の不断の拡大と持ち出しによる維持を続け・・例えば、ソ連時代に、各種補助金を、国内の中央アジア地域
http://www.columbia.edu/~tmt2120/impacts%20to%20life%20in%20the%20region.htm
や国外の東欧諸国や親ソ第三世界諸国(1985年だけで第三世界諸国に69億ドル)
http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_trade_of_the_Soviet_Union に投入し続けた・・、現在に至っている、ということであり、第二に、プロト欧州文明(及び欧州文明の初期)継受時代がロシアの安全保障面を含めた黄金時代であったという意識から、ロシア人は、基本的に、スターリンの時代から、その頃の国のかたちに回帰しようとして現在に至っている、ということ。(【首都】モスクワ:プロト欧州文明継受・回帰期、サンクトペテルブルク:欧州文明継受期)

 プロト欧州文明と同文明継受時代を含むロシアとの最大の違いは、政治と宗教の関係であり、後者においては、宗教が政治に隷属しているだけでなく、宗教者が戦闘に従事したり、政治家が聖人に列せられたりすることさえある。(コラム#7096)

 (ロシア史は苦悩と悲しみの連続。それを象徴しているのがロシア歌謡。本日、後でアップするコラムで、シュトコロフの歌唱を取り上げている。なお、ウクライナ歌謡とくらべてみるのも一興(コラム#3869)。)

  (3)スターリンの時代(1922年〜53年)

    ア スターリン主義とキリスト教

 「「1917年には、・・・レーニンと・・・トロツキーによって率いられたボルシェヴィキ革命の後、ロシア<は>同性愛・・・を合法化した。
 しかし、ヨシフ・スターリンが権力を掌握すると、これらの前進・・・は少しずつ後退させられ、政府によって同性愛は事実上再び違法とされるに至った。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Sodomy_law 
 <考えてみれば、>スターリンは、小さい時から故郷の正教の聖職者学校に通い、16歳から20歳までグルジアの首都のトビリシのグルジア正教の神学校で教育を受け、その後、棄教してマルクスレーニン主義者になった人物です。・・・
 若きスターリンに注入されたキリスト教の論理から、スターリンはついに解き放たれることはなかったと考えないと、スターリンによる、同性愛の取り扱いの180度転換・・というか復古・・の説明ができないのではないでしょうか。
 このことは、スターリンが、マルクスレーニン主義をスターリン主義に変貌させるにあたって、彼が注入されたキリスト教の基本的な物の考え方が決定的な役割を果たしたであろうことを強く推認させるものです」(コラム#6387)

 また、「妊娠中絶はロシア帝国では違法でしたが、取り締まりは緩く、例えば、1910年に起訴されたのは83件に留まっています。
 ロシア革命後の1920年10月、ボルシェヴィキはソ連内のロシア同盟において妊娠中絶を合法化し、やがてソ連では、女性は申告さえすれば、(しばしば無料で)妊娠中絶手術を受けられるようになります。
 ところが、1936年にスターリンは、一転、妊娠中絶を非合法化します。
 一般には彼が人口の増大を図ったからだ、とされていますが、私見では、彼のキリスト教論理が彼をそうさせたのであり、これは、彼による同性愛の非合法化と一対のものと受け止めるべきでしょう。
 しかし、同じく非合法であったロシア帝国時代に、既に妊娠中絶は野放しに近い状態であったことから、今回もヤミの妊娠中絶は高水準で続きました。
 そして、スターリンが1953年に死ぬと、妊娠中絶はただちに再度合法化され、現在に至っています。」(コラム#6389)

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<ヨシフ・スターリン>(スライド参照)

(1878〜1953年。最高権力者:1922〜53年)
ロシア帝国領のグルジアに生まれ、正教の神学校で教育を受けるが後に棄教、マルクス主義者になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
1930〜33年に実施した農業集団化に伴う飢餓や弾圧で約850万人が死亡したという推計がある。(農奴制回帰)
http://en.wikipedia.org/wiki/Soviet_famine_of_1932%E2%80%931933
このほか、1934年から40年にかけて、大粛清を行い、数十万人を殺害したとされている。(皇帝制回帰)
http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Purge
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   イ ルーズベルトのアメリカとスターリンのロシアとの同盟

 「1933年に米ソが国交を樹立し米国がモスクワに大使館を設けた・・・
 ローズベルト大統領は、国務省の幹部やニューヨークタイムスのソ連特派員のワルター・デユランティ(Walter Duranty)(コラム#178)からの対ソ宥和的意見に取り囲まれており、死ぬまでスターリンを「ジョー叔父(Uncle Joe)」と呼び、ソ連と友好関係を維持したのです。」(コラム#2844)
 「駐ソ米国大使のブリット(William Bullitt)は、大使館でど派手な舞踏会ばかりを催していました。
 次のデーヴィス(Joseph Davies)大使は社交好きの大金持ちでローズベルト大統領のお友達でしたが、スターリンを尊敬しており、・・・スターリン礼賛の超大作本で映画にもなった「モスクワでの任務(Mission to Moscow)」を著し<ました。>」(コラム#2846)

 「同8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告<し、第二次世界大戦がはじまった>。9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
 「ルーズベルトは、ソ連によるフィンランド、ポーランド、およびバルト三国侵略については黙認していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
 例えば、「フィンランドに対し<ては、>1000万ドルの借款を提供する一方で、ソ連に対しては、同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した<だけだった>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E6%88%A6%E4%BA%89

 「思いつくままに挙げるだけで、米国内で少数派の黒人、アメリカ先住民、それ以外の有色人種を迫害することで政権を維持したローズベルト政権に対するに、ロシア国内で少数派の富農(クラーク。中国共産党の場合は地主)や少数民族を迫害することで政権を維持したスターリン政権、また、ユダヤ人の圧倒的支持を受けて当選を繰り返しながら、
http://en.wikipedia.org/wiki/American_Jews
密かに生来の反ユダヤ主義的政策を行ったローズベルト政権
http://www.thenation.com/article/175315/fdrs-jewish-problem#axzz2c1knWIYB
に対するに、マルクスレーニン主義が攻撃した反ユダヤ主義を、大粛清の際にユダヤ人を狙い撃ちすることで、そして、戦後、スターリンが亡くなるまでの間、むき出しの反ユダヤ主義に転じることで覆したスターリン政権、
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Jews_in_Russia
と、両者が似ている点がいくつも出てきます。
 しかも、スターリン主義がマルクスレーニン主義を受け継いだところの、理想主義的・民主主義的思想や終末論的思想(注<A>)や選民思想(注<B>)や使命感(注<C>)もまた、当然のことながら、リベラル・キリスト教神学の申し子であったローズベルト政権やローズベルト政権に近い米国の指導層に近親感を覚えさせたはずです。

 (注<A>)ローズベルト政権にあってはキリストの再来による救い、スターリン政権にあっては共産主義社会の到来。
 (注<B>)ローズベルト政権にあってはWASPを中核とするチュートン系、スターリン政権にあってはスターリン主義共産党員、が選民。
 (注<C>)ローズベルト政権にあってはマニフェストデスティニー、その尖兵は宣教師、スターリン政権にあっては世界の共産主義化、その尖兵はコミンテルン員と各国の共産党員。

 そして、何よりもかによりも、両政権とも白人政権でしたからね。・・・
 このような多重的な親近感を少なくともローズベルト政権がスターリン政権に抱いていたからこそ、ローズベルト政権はソ連(スターリン政権)に宥和的であり続けたのだし、ハリー・デクスター・ホワイトのような容共高級官僚が同政権内で大活躍ができた(コラム#5904等)のだし、ジョゼフ・スティルウェルのような高級軍人やエドガー・スノーのような時代の寵児的ジャーナリストが毛沢東に誑かされ、同政権による蒋介石政権の切り捨て/中国共産党支持への大転換が行われた(コラム#6350)のです。
 すなわち、先の大戦における、米ソの事実上の同盟は、両者の、非原理主義的キリスト教性が必然たらしめた、というのが私の見解です。」(コラム#6391)

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<リベラルキリスト教>

一、アメリカには双極性障害的な人が多い。

 「「双極性障害の生涯有病率は、海外では1.0〜1.5%の値が報告されている<・・ただし、「何らかの形の双極性に苦しむ人々は、米国では25%近くに、また、英国では5%前後に達している。」(コラム#6172)・・>が、日本における疫学調査では、およそ0.2%とかなり低い。この大きな有病率の差の原因<については、>・・・未だ結論は得られていない。・・・
 双極性障害のうつ状態は単極性のうつ病と症状<が>似ており、完全に区別はできないが、過眠・過食などの非定型の特徴が多い、幻聴や妄想が多い、といった傾向はある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E6%A5%B5%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3
http://souutu.info/syoujyou/mousou.html 」(コラム#6403)

二、理由その1:キリスト教は人を双極性障害的にしがち。

 「持っている物をみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そしてわたしに従って来なさい」(新約聖書ルカ書22節)。「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(同25節)。
⇒私のスタンフォード・ビジネススクールでの驚愕体験(太田『防衛庁再生宣言』169〜170頁)。マックス・ヴェーバーの、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は誤り。)

 「極度に利他的/共感的な人物は、極度に利己的/非共感的な精神病質者とは対蹠的でありつつ、(拒食・過食症等の)一種の精神障害者であり、また、双極性障害者は、利他性/共感性の躁期と利己性/非共感性の鬱期とを他律的に繰り返す精神障害者である以上、イエスのように、利他主義を強く説くのは、信徒を精神障害者にしようとしている、と謗られても仕方ないでしょう。
 そんな教えをインドクトリネートされる信徒の側は、精神障害者にならないようにするためには、「意識的に」利他期と利己期を切り替えることによって、自分自身が利他的に凝り固まってしまうこと(で拒食・過食症等の精神障害者になってしまうこと)を防ごうとするとともに、心身が「無意識的」にバランスをとるために利己主義へとふれ、また再び利他主義へのふれ戻しがくる、ということを繰り返す結果として双極性障害者という精神障害者になってしまうことをも防ごうとすることでしょう。
 これは、利他主義だけでは、自分が食い詰めてしまって生きていけなくなる可能性が高く、これを回避する、という現実的観点からも、そうしなければならないはずです。
 利他主義的部門と利己主義的部門が車の両輪となっていて、同じ人物が、両部門を行ったり来たりすることが奨励される社会、と言えば、誰でもすぐ思い当たることでしょう。
 そう、米国社会です。」(コラム#6367)

三、理由その2:アメリカのリベラル・キリスト教は最も人を双極性障害的にする。

 「米国のリベラルの多くは、いわゆるキリスト教原理主義者の顔色をなからしめるほどの、(キリスト教に内在する論理だけを信奉し、聖書の記述にとらわれない、いわんや教会の言うことなど歯牙にもかけないという意味で)純粋なキリスト教徒・・・<な>のです。
 つまり、米国のリベラルにおいては、キリスト教に内在する差別性や暴力性や利他/利己ぶれ等が、他の何物によっても規制されないことから、彼らが米国のような強力な国を牛耳って対外政策を展開した場合、米国以外の国や社会が蒙る迷惑の度合いは、キリスト教原理主義者の場合に比してはるかに大きい・・・のです。」(コラム#6367)

四、第二次世界大戦当時のルーズベルト民主党政権はその典型。

 「ローズベルトの宗派は聖公会であるところ、聖公会は・・・、もともとは英国教会であって、>・・・<米>国が<英国>から独立すると創設された<という経緯があり、>・・・歴代の<米>大統領の1/4、<米>最高裁判所長官の1/4は・・・信者で・・・<米>議会と<米>最高裁判所判事の約半分が信者」という宗派であり、「カトリック系をも含めた全てのキリスト教諸教派の中で最もリベラル寄りだとする評価<が>あ」ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E8%81%96%E5%85%AC%E4%BC%9A
 すなわち、ローズベルトこそ、私の言う米国のリベラルの理念型的な存在である、と言ってよいでしょう。」(コラム#6385)

「一、敬虔なキリスト教徒が過半を占める米国には、昔も今も、リベラル・キリスト教徒が多い民主党系を中心に双極性障害的な人が多い。
二、ローズベルトを始めとする戦前の米国の民主党系の有力者達は、1937〜1939年にかけて、英国を全球的覇権国の地位から名実ともに引きずりおろすことを期しつつ、独裁的なナチスドイツによる侵略に直面している英国と軍国主義的な日本に侵略されている支那を救うための軍事介入を欧州と東アジアで行うことで、全世界を「自由民主主義」諸国に対する脅威から守る国、すなわちかかる意味での全球的覇権国、へと米国を変貌させる、という利他主義的な躁的妄想を抱いた。
 (妄想であるのは、それが事実に立脚していない・・ヒットラーは英国が対独宣戦布告をしない限り英国侵攻など考えていなかったし、日本は対赤露抑止戦略を遂行していただけ・・からであり、利他主義的であるのは、欧州と東アジアへの軍事介入の必要性を米国の安全保障上<や経済上>の観点から裏付けることは不可能だからだ。)
三、ところが、当時、共和党系の人々のみならず、民主党系の人々の過半まで、非軍事介入主義を抱懐していたことから、ローズベルトらは、(自分達自身が、人種主義的で反ユダヤ的なファシストであったにもかかわらず、)共和党系の有力者達を、ナチスドイツ等に心を寄せるファシストである、と合法非合法のあらゆる手段を用いて攻撃すること、具体的には、双極性障害的な広範な米国人の鬱期における不安感に付け入ってファシストの脅威なる妄想を掻き立てて茶狩りを行うこと、でもって、そして、最終的に、日本を真珠湾攻撃へと追い込んだこととその直後のナチスドイツの対米宣戦のおかげをもって、米国民の大部分に、米国の軍事介入主義化、ひいては米国の全球的覇権国化なる、自分達の躁的妄想を共有させることに成功した。
四、先の大戦終結時にこの米国人の躁的妄想は何と実現することになるわけだが、これは、ドイツがその占領地統治が過酷過ぎたためにソ連隷下の諸民族のほぼ全てを敵に回してしまった結果ソ連に勝利できず、その一方で、日本が対英米戦劈頭に東南アジアで米英にとって予想外の大勝利を重ねたことによって大英帝国の早期瓦解が決定的になった、という二つの棚ぼた的要因によるところが少なからずある。」(コラム#6409)
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  (4)プーチンの時代(1999年〜)

 「要するに、私見では、ロシア人の大多数には、プロト欧州文明を継受していた期間、せいぜいそれに加えて欧州文明の過渡期を部分的に継受していた期間、がロシアの黄金時代であったという認識があるのです。<(前述)>
 その前のロシア創世記は、タタールの軛をもたらしたし、1861年の農奴解放令以降の本格的な欧州文明継受(注<D>)は、帝政ロシア時代のナショナリズムも赤露時代の共産主義/スターリニズムも、新生ロシア時代の市場原理主義も、それぞれ最終的には挫折に終わり、しかも、現在のロシアの欧州内の国境線は、実にモンゴル襲来前の1200年時点のもの
http://i.gzn.jp/img/2013/09/21/chiliad-european-history/01.png
とほぼ同じ位置にまで後退してしまっています。

 (注<D>)「ニコライ2世の治世ではヴィッテ財務大臣によるフランス外資の導入による、重工業化が行われた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 「シベリア鉄道<は、>・・・1891年に建設を開始し、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E9%89%84%E9%81%93
 「三国干渉・・・は、1895年・・・にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国<は>日本に対して勧告<を行い、>日本と清の間で結ばれた下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求め<、これを日本に飲ませた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%B9%B2%E6%B8%89
 以上は、欧州文明継受国となっていたロシアが、欧州文明の両本家たる仏独と、文明的に生来的な同盟関係を構築するに至っていたことを示すいくつかの事例だ。
 ラパッロ条約から始まる、第一次世界大戦後の露独協力も、第二次世界大戦後の、赤露の東欧「占領」と呼応するかのような仏伊での共産党の勢力伸長も、現在の、露と欧州の足並みを揃えてのプロト欧州文明化の動きもまた、そうだ。
 
 要するに、ロシア人達は、欧州がアングロサクソン文明を模倣し、追い越そうとした時期の欧州文明を自分達が継受したことは大失敗だったと唇を噛んでいるです。
 とにかく、ロシアのこんな現在の状態では、アジアにおける、モンゴルの後継者たる、イスラム系勢力や支那からの脅威に到底対処できない、という安全保障上の根源的危機意識の下、ロシア人達、ひいてはプーチンは対外的言動を必死の思いで展開してきている、と私は見ているのです。
 彼らにしてみれば、幸いなことに、最初のプロト欧州文明(継受)期と違って、現在は、農業のほか、赤露時代に培った軍事産業に加えて、石油・天然ガス資源が安全保障の原資になる、という気持ちなのでしょう。
 
 しかし、このような思い込みに基づく戦略は致命的な誤りである、と言わなければなりません。
 前にも記したことがありますが、ロシア人達は、モンゴルの軛のトラウマを、遅ればせながら、今こそ克服し、むしろ、自分達が、人種的にもモンゴルを始めとするアジア人との混血であるとの意識を持って、<徹底した>ユーラシア志向<(コラム#7144)>を打ち出し、トウ小平以後の支那の顰に倣って、(モンゴルのかなたのアジアの)日本文明に着目し、創世記のロシアの自由の文化を想起しつつ、自分達の人間主義化を図るべきであり、プロト欧州文明回帰など愚の骨頂である、というのが私の見解です。
 しかし、残念ながら、ロシアは、ソ連崩壊後、日本よりも遙かに速いペースで人口減少が進んでおり、また、自傷行為的な対欧米政策を追求することで経済苦境を今後も招き続けると思われ、その軌道修正はできない、と予想せざるをえません」(コラム#7098)

 2 中国

  (1)中国文明の成立(スライド参照)

    ア 畑作の北の民が遊牧民と混淆、水田耕作の南の民を征服

 「長江中流域にB.C.14000頃に稲作を行っていたとされる遺跡が発見されました。これまでは、中国の最古の文明は、黄河流域と考えられており、 また世界的に見ても小麦農業はB.C.12000頃に始まったとされているので、長江の稲作農業は世界最古といわれる文化と考えられるようになりました。
 中国の古代文明は黄河一極ではなく、少なくとも二元的あるいは多元的な起源があると考えなくてはならないようになったのです。・・・
 <長江流域では、>多くの余剰を持つ者と持たない者との貧富の差は広がり、富を持つ者は自らの財産を守る必要性がでてきました。 そこで城壁都市が発生したのです。・・・<これは、>富の争奪が激しい戦争<が行われるようになったこと>を意味しています。・・・
 <さて、>B.C.2000頃は夏王朝が勃興したとされ<ていま>す。 古代の聖王堯・舜・禹はしばしば南征を行いましたが、 この神話は実際の勢力争いを反映していると考えられます。<すなわち、>・・・黄河文明圏勢力と争い、・・・長江文明は衰退したのです。しかしその文化は確実に黄河文明に引き継がれました。」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point39.html 
 「ユーラシア大陸全体を襲った寒冷化により、支那の水田耕作が打撃を受けたことで先発側が弱体化した、という<ことのような>のです。」
 (コラム#6961)

 「稲作地域出身の人々は小麦生産地域出身の人々に比べ、考え方が相互依存的で全体の和を重んじる」(コラム#6930)という科学的知見や、遊牧民の、(リーダーを選挙で選ぶという)民主主義的側面(コラム#626、633〜637、643、658、659、668、671)ないし民本主義的側面(注<α>)に関する私の以前の指摘、更には、南は水田耕作文化で北は畑作文化と遊牧文化の複合体という実態、等を踏まえれば、南の人民は人間主義的で北は非人間主義的であったのに対し、南の支配者に比して北の支配者は、より民主主義的でかつ民本主義的であった、と考えたいところです。

 (注<α>)「「遊牧民系である<鮮卑系たる>唐<の2代目の太宗>と<女真たる>清の2代目<の>康煕帝・・・が稀代の名君であった<とされてきた>ことは偶然とは思われません。」(コラム#1562)、「<支那には>真に民本主義的な統治を行った皇帝が・・・少な<く>、しかも、その少ない代表例が2人とも遊牧民系の王朝の初期の皇帝であった<わけです>。」(コラム#4858)

 さて、・・・両者のそれぞれの長所は相互に打ち消し合い、短所は相乗的に増幅された形で統一支那文明が形成された、と私は見たいのです。
 すなわち、北の支配層は、北の支配層間にその痕跡が残っていた可能性がある広義の選挙制に、新たに隷属させた南の旧支配層を参加させないためにも、選挙制の痕跡を払拭するとともに、北の人民に対する民本主義的統治を、信頼関係の全くない南の人民(及び旧支配層)に及ぼす必要性を認めず、実質的に止めてしまい、形式的には引き続き民本主義的統治を標榜しつつも、それを叛乱を生起させないギリギリの範囲で搾取を続ける統治へと堕してしまった、と見るわけです。
 そして、南の人民(及び旧支配層)は、かつては、北の人民(及び支配層)に比して、より人間主義的であったがゆえに、水田耕作によって生じた余剰を巡っての争いに関しても、一族郎党が集住する環濠集落を本格的な都市国家へ、そして更には領域国家へと拡大強化するまでもなく対処が可能であったことから、人間主義が一族郎党を超える域まで達しないうちに、つまりは、人間主義的の「的」がとれないまま、相対的に大規模な戦乱が続いたために軍事により長けることとなり、軍事力の拠り所たる領域国家を形成するに至っていたところの、北の諸国更には北の統一国家によって、(南における、寒冷化による米収量の減少も与って(?)、)個別に次々と征服されてしまい、(私が命名したところの人間主義未満の)一族郎党命(いちぞくろうとういのち)主義が、北の人民(及び支配層)の非人間主義、すなわち利己主義と混淆し、利己主義/一族郎党命主義をエートスとする統一支那文明が形成された、と見るわけです。
 これに関連し、北においては、南に比べれば豊かでも、従ってまた、平和志向的ではなかったものの、畑作だけでそれなりの収量を確保できたことから、ゲルマン人のように戦争を生業にするようなことはなく、また、遊牧民由来の戦争志向的傾向も耕作民的傾向によって緩和されていたことから、戦争志向的であったとまでは言えなかったところ、南は、一層戦争志向的ではなかったことから、統一支那文明は、余り戦争志向的でなく、従って余り対外膨張的ではない文明たらざるをえなかった、ということではないでしょうか。
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<支那と仏教>

 こんな支那文明の平和志向性に適合的であり、平和志向性を下支えしたのが、後に支那に伝来した仏教であった、と言えるのではなかろうか。
 但し、累次の廃仏により、支那における、仏教の(平和志向性を含めた)影響力は限定的なものにとどまったと見るべきだろう。
 すなわち、「<支那>への仏教の伝来は、1世紀頃と推定され・・・シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される<ところ、>・・・北周の武帝<が早くも>仏教・道教二教の廃毀<行っており、>・・・<その後、>隋の文帝<が>・・・仏教治国策を展開する・・・<ものの、唐の>武宗の会昌年間(841年〜846年)の・・・仏教弾圧・・・を契機として、仏教の勢力は急速に衰えることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
 ちなみに、仏教は、布教活動を殆んどしないところ、西漸することなく東漸したのは、稲作地帯へ自然に広まったということ。(コラム#6965、7170)
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 以上のような統一支那文明確立へのプロセスは、北に夏(BC2070年頃〜BC1600年頃)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)
(前出)が成立する以前から始まっていたと考えられるところ、殷(BC1600年頃〜BC1046年頃)(注<β>)、周(BC1046年頃〜BC256年)・・更に細分化すれば、西周(BC1046年頃〜BC771年)、春秋時代(BC770〜BC403年)戦国時代(BC403〜BC221年)(注<γ>)・・を経て秦の成立(BC221年)に至って完了した、と私は、現在、考えています。

 (注<β>)「殷の王位継承<は、>・・・基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかった」点に、北における遊牧民の選挙制の痕跡がうかがえる。
 なお、「殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になってい<くと、>・・・歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化<した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7 (「」内)
 (注<γ>)「春秋末から戦国にかけて、中国の国の形態は、都市国家・・・<たる>邑・・・から領土<(領域)>国家へと発展していった。・・・
 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集の経済を営む非定住の部族が生活していた。彼らは「夷」と呼ばれ、しばしば邑を襲撃し、略奪を行った。」(ウィキペディア上掲)

 (日本列島に南の人々が渡来したのは、この間の戦国時代です。)
 それでも、この統一支那文明は、現存する世界最古の文明である、と言っていいでしょう。
 この統一支那文明確立への最後の仕上げを行うこととなるイデオロギーを提供したのが墨子であった、と私は見ているわけです。」(コラム#6963)

⇒中国南部の人々には人間主義的傾向があること、中国の仏教継受時代にその傾向が中国全体に希釈された形であれ浸透したこと、を覚えておいてください。

    イ 墨子(ホンネ)/儒教・法家(タテマエ)

 「すなわち、口先では民本主義を唱和しつつも、被支配層からの最大限の搾取を旨とする利己主義者達からなる支配層と、阿Q<(注Δ)>的な被支配層からなる支那にあって、墨子は、「生活必需品の増産を至上命題と」しつつ、平和を確保するためには、「義の解釈権を君主が独占し、その義を全家臣及び民衆が信じ<るとともに、ひたすら>、生活必需品の増産に勤しまなければならない、という」唯物論的全体主義思想を唱え(コラム#1640)、この墨家の思想を最も忠実かつ徹底的に実践した秦の始皇帝によって、長きにわたった支那の(春秋戦国時代の)戦乱が終息し、北と南とを包含した統一国家が支那に初めて成立し、ここに支那文明が確立した、と私は考えるのです。

 (注<Δ>)「権威には無抵抗で弱者はいじめ、現実の惨めさを口先で糊塗し思考で逆転させる・・・滑稽<な人物>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D
 阿Q達は、利己主義者達であり、人間主義的な言動は、一族郎党の範囲内でしか見られない。これが、私の言うところの、一族郎党命主義である。(コラム#6319等)

 さて、墨子を始祖とする「墨家は儒学と並び称される程の学派となった<にもかかわらず、>・・・秦帝国成立後、突如として各種文献から墨家集団の記述は無くなり、歴史上から消えてしまった。なぜ墨家は忽然と消えてしまったのか。焚書坑儒の言葉に代表される秦帝国の思想統制政策により、集団として強固な結束をもっていた墨家は儒学者その他の思想派よりも早く一網打尽にされ、一気に消滅したと思われる。さらに漢代になると、墨家と激しく対立していた儒家が一大勢力となった為、墨家思想排斥の動きが加速したであろうことは想像に難くない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90
わけです。
 「想像に難くない」で終わっている文章については、当然のことながら、典拠は付されていませんが、墨家が、儒教と違って、本当の意味での易姓革命思想を唱えたことから、秦によって真っ先に抹殺されたとしても不思議ではありません。
 しかし、秦から毛沢東政権に至る、支那文明における易姓革命の歴史を見ただけでも、墨家の思想こそ、支那文明をホンネベースで規定してきた思想である、と言ってよいのではないでしょうか。
 すなわち、秦が掲げた法家の思想も、前漢以後清に至る歴代王朝が掲げた儒教も、タテマエでしかなかった、と言ってよいのではないか、ということです。(コラム#3401、4856、5632等参照。)
 (儒教が、タテマエとして掲げられ続けたことには、後述の科挙制度が大きく与っていると私は思います。)

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<中国における音楽の貧困>

 墨家の思想に注目すべき理由の一つが中国における音楽の貧困だ。
 「孟子以下、儒家はみな音楽を重視した。音楽美学を論じ、後世の学者が尊んだ〈楽記〉(《礼記(らいき)》の一編、前2世紀以前成立)に〈楽は徳の華なり〉というごとくである。しかし墨子は《非楽》を著し、為政者が楽舞を行うのに、民を搾取して過剰な経費をかけるとの理由から、音楽活動には否定的態度をとった。」
http://kotobank.jp/word/%E6%A5%BD%E8%A8%98
 「<ケイ>康<(224〜262/263年)。三国時代の魏の文人。竹林の七賢の一人で刑死)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E5%BA%B7 >・・・が書いた「声無哀楽論」では、・・・儒家の音楽教育作用に対し、人々の感性が違うため、音楽に対する理解も異なる。それゆえに音楽で呼び起こす感情も違う。良い音楽は好まれるが、「風俗習慣を改める」という教育作用はないと述べた。また、儒家学派で考えた「乱世の音」や「亡国の音」という考えに対し、音楽を無理矢理に政治と結び付<け>、音楽の芸術性を無視することを批判した。しかし、民間音楽をコントロールすべきだという視点においては、儒家の思想に影響されていたことは否定できない。・・・
 <このような背景の下、中国では、民間音楽の興隆もまた阻害された。(太田)>
 日本からも唐へ遣唐使を派遣し、今の日本伝統音楽である雅楽も唐楽の影響を受けた。日本の雅楽は、中国の音楽文化だけではなく、アジア諸国の音楽・舞踊文化を融合した芸術である。<しかし、>現在では、雅楽と唐楽が日本でしか演奏されて<いない。>・・・
 <以上から、中国の、少なくとも唐より後の歴代王朝が、ホンネでは墨家に従い、儒家の言う「礼」の核心とも言うべき「楽」を無視してきたことは明らか。(太田)>
 中国で最初の音楽教育に着手することになったのは、日本で音楽を勉強した人々<だった。>・・・」
http://www.xrmilkyway.com/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
 「声明<は>・・・仏教が起こったインドで生まれたあと中国に伝わり、中国から仏教伝来と共に日本に伝わり、定着した。・・・平曲・謡曲、民謡、浄瑠璃などの音曲は声明の転化といえる・・・
 <つまり、声明が、支那では仏教衰亡後に失われてしまったのに対し、日本では失われることなく、しかも、吟じられた和歌に象徴される民間音楽に対し、強い影響を及ぼし、その一層の興隆をもたらしたということ。(太田)>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E6%98%8E
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 こういうわけで、この支那文明は、人間主義の日本文明とは対蹠的な、不信に満ちた文明であったのです。」(コラム#6967)

 (墨子については、吉永慎二郎・秋田大学教育文化学部教授の説(コラム#1640)に従っている、)

  (2)中国文明の特色

    ア 人間主義的名君の不存在

 「(平和で被支配者達が人間主義的であった)日本とイギリス以外の世界の大部分において、君主は、恒常的に内外からの大きな脅威に晒されていたことから、最大限の軍事力を維持しなければならず、その原資は領域内からの搾取か領域外からの略奪に求めるしかありませんでした。
 後者のためには更なる軍事力が必要であって話が元に戻ってしまうので、前者についてですが、そのためには、搾取を、被支配者達から叛乱の原資を奪う程度以上でかつ被支配者達が餓死・病死しない程度以下・・これはほぼ一義的に決まる・・にとどめることが不可欠でした。
 まさに、「百姓<は>生かさず殺さず」ってやつですな。
 以上、やや極端なケースの話をしましたが、少なくとも、そんなところにおいては、人間主義的統治を行う余地などありえなかったことが、なんとなくご理解いただけたのではないでしょうか。」(コラム#7075)

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<百姓は生かさず殺さず>

 「江戸学の祖といわれる三田村鳶魚(えんぎょ)の名著『江戸雑録』<によれば、>・・・ 徳川家康の謀臣・本多佐渡守正信・・・が
〈百姓は、天下の根本なり。是を治める法あり。(中略)百姓は、財の余らぬように、不足なきように治むる事、道なり〉
 といったのが
〈百姓は、生かさず殺さず〉
 の初出で、やがて
〈生きぬように死なぬように〉
 という言葉に置き換えられていったのだという。
 正確には、
〈軍書・戦記の上では、イイカゲンにせよということで、生きぬように死なぬように扱えといった。威張らせずもせず、閉口させもしない、という意味に使われている〉(同上)
 ということなのだ。・・・
 江戸幕府の政治は、百姓のみならず、すべてが生かさず殺さず、言い換えれば、
〈威張らせず、閉口させず〉
 で、与奪(与えたり奪ったりすること)を巧妙にしてあったという。
 一方で与えれば、必ず他方で奪う、といった具合に互いに加減乗徐(足し算、引き算、掛け算、割り算)するという、現代よりはるかに平等社会であった。・・・
 大老は、酒井や伊井のような大身(たいしん)が務めたが、大老を置かない時が多いので、幕府閣僚といえば、10万石以下、4〜5万石以上の小大名であった。
〈これは家康以来の仕癖(しへき)であって、(中略)資力と権勢とを分ける、両手に華を持たせない仕向け(待遇)〉
 であり、
〈懐中(経済力)のない奴に威張らせて、財布の重い者を引き込ませておく〉
〈貧乏大名が、財布の軽いためにへこまない、大大名の懐が暖かくても、権勢とはご縁が遠いから、睨(にら)め回して肩で風切るわけにもいかない〉 
 といったように、資力(経済力)と権勢(政治力を分けて持たせることで、いずれも死なぬように生きぬように、つまり偏らないように仕向けたのが、
〈江戸前の政治〉(すべて同上)
 であったという。」
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1153674.html

 なお、江戸時代に、士農工商という言葉はあったが、身分制度が存在したわけではなく、士農工商間に上下関係もなかった。また、切り捨て御免のイメージと実態は全く異なる。(コラム#7172)
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 「康熙帝<は>・・・唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D

 「唐王朝の李淵が出た李氏は、・・・鮮卑系貴族<で、>・・・隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号と<したものです>。・・・
 遊牧民系である唐と清の2代目(康煕帝は、中華帝国としての清の皇帝としては2代目・・・が稀代の名君であったことは偶然とは思われません。
 遊牧文化には、自由・民主主義との親和性がある、ということの例証かもしれませんね。」(コラム#1562)

 「李世民(太宗教:598〜649。皇帝:626〜649年)「は武将として優れた才能を発揮し、・・・隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。・・・
 <そして、自分が殺害した兄の>建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察<等をして、>・・・唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
 <また、>・・・突厥討伐を実施・・・し、630年・・・には突厥<を>・・・崩壊<させ、>西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。・・・更に640年・・・、西域の高昌国を滅亡させ・・・この地を直轄領とした。
 こ<の>・・・太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。」
 しかし、「『太宗実録』の編者であった許敬宗は、賄賂により筆を曲げたと両唐書の伝にあり、太宗に関する記録の全てが信用できるとは限らない。」ということなので、そもそも、上掲の李世民の事績が真実であるかどうか定かではない上、「高句麗への2度の遠征に失敗している」ことも忘れてはなるまい。
 (以上、「」内は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90) による。)
 より根本的なことがある。
 つまり、仮に、上掲の李世民の事績が真実であるとしても、「賦役・刑罰の軽減」・・この点は後で改めて取り上げる・・以外は、要するに、治安を確保し、外患を絶ったというだけのことであり、名君とは言えても人間主義的名君とまでは言えまい。
 なお、彼は、唐における名君の制度的輩出システムの構築を怠ったどころか、晩年において、立太子問題を発生させたこと(上掲)と、後の武則天(523?〜705年、皇帝:690〜705年)・・・を寵愛したこととが相まって、唐衰亡の根本原因をつくったことからすれば、名君の域にすら達していない、というのが私の評価だ。・・・

 で、この際、「唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる」、清の愛新覚羅玄(康熙帝:1654〜1722年。皇帝:1661〜1722年)も月旦することにしよう。
 
 彼は、「1681年・・・に三藩の乱を鎮圧した。その2年後には・・・鄭氏政権<の>・・・台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。・・・<更に、新疆ウィグル地区も直属させた。>・・・<このようにして、>実質的に清を全国王朝とした・・・。・・・
 内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税を度々行った。また、丁銀(人頭税)の額を1711年の調査で登録された人丁(16歳〜59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D
 この倹約の話は英語ウィキペディアには出てこないのだが、減税について、英語ウィキペディアは次のように皮肉たっぷりに記しているところだ。
 「康熙帝による征服によって支那に平和が戻り、敵対行為が減少した結果、そしてまた、そのおかげでの、急速な人口増、土地開墾、更には農業に立脚した税収増により、彼は、まず、税の減免、次いで1712年の土地税と賦役全般の凍結、を・・・実施することができた。(もっとも、同王朝は、やがてこの財政政策によって苦しむことになる、)」
http://en.wikipedia.org/wiki/Kangxi_Emperor

 つまり、太宗にしても、康熙帝にしても、自分の権力を増大させ、安泰化させるために、被支配者達から税・賦役を収奪して軍事力等を整備、行使して、治安を確保し外患を絶った結果として、従前ほど税や賦役を確保する必要がなくなり、(太宗の場合、)従前ほど刑罰で締め上げる必要もなくなった、というだけのことなのであって、それらは、彼らが、人間主義的に被支配者のことを慮ったためでは全くないのだ。
 ちなみに、康熙帝も、「崩御まで皇太子を立てることはなかった。そのため皇位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられ<た>」という有様であり、「名君の制度的輩出システムの構築を怠ったどころか、晩年において、立太子問題を発生させた」太宗と余りに符合する無責任ぶりに、暗澹たる気持ちに陥らされる。
 つまり、支那史における最高の名君とされるこの二人にして、なお、どちらも、(毛沢東的な意味での)究極のエゴイストでしかないのであって、自分なき後のことなど野となれ山となれだ、という人物であった、と断ぜざるをえないのだ。」(コラム#7070) 

    イ 不信の産物・・科挙・宦官・均田制

 「支那文明は、人間主義の日本文明とは対蹠的な、不信に満ちた文明であったのです。
 そして、歴代の支那の皇帝達の、自分達自身以外の支配層、及び被支配層、に対する不信が生み出した制度が、科挙、宦官、そして均田法である、と私は考えるに至っています。
 これらを個別に見ていけば、私の言わんとするところをご理解いただけることと思います。
 まず、科挙ですが、「隋朝の楊堅(文帝)が初めて導入した<ものであり、>古くは貴族として生まれた者たちが高位を独占する時代が続いたが、家柄ではなく公平な試験によって、<貴族ではなく、>才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新といえ・・・北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらした」わけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
 次に宦官ですが、「後漢では豪族の力が甚だ強く、それに対抗するために皇帝が手足として使った存在が宦官であ<り、>・・・唐においても藩鎮勢力に対抗するためと考えられる」わけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A6%E5%AE%98
 更に、均田法ですが、「前漢では豪族による大土地所有が進み、これを嫌った政府は哀帝の即位・・・と共に土地の所有の上限額を決める限田制を実行しようとしたが、強い反対に遭い断念した<ところ、>武帝治世の末頃から、地方政府が困窮した民を募って官田を耕作させる経営を行い始め・・・この流れを受け、漢朝を簒奪した新の王莽は土地の私有を禁じ、全てを王田(国有地)とする王田制を打ち出した<が、>剰りにも空想的な施策であり、当然ながら大地主層からの激しい反発を受けた・・・<といった背景の下、均田制が>魏孝文帝治世の485年に初めて施行され、その後の東魏と北斉、西魏と北周、隋、唐に受け継がれ<た>」わけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%87%E7%94%B0%E5%88%B6 ・・・
 このような被支配層・・・に対する不信とは無縁であった日本で、拡大弥生時代に支那のありとあらゆる文物が継受されたにもかかわらず、科挙と宦官は導入すらされず、均田法は導入されたものの事実上実施されなかったことは、当然でしょう。

 では、どうして、日本文明以外でも、例えば、プロト欧州文明で、科挙や宦官や均田法に相当するものが存在しなかったのでしょうか。
 カール・ヤスパースの唱えた枢軸の時代は、人間主義への回帰の方法論が世界の各所において追求された時代で・・・<した>。・・・

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<枢軸の時代>

 「紀元前900年頃から紀元前200年頃にかけて、ユーラシア大陸の各所で、一斉に精神的・哲学的覚醒が行われたことに今から60年前に最初に注目し、これを枢軸の時代(axial era)と名付けたのはドイツの精神医学者にして哲学者であったヤスパース(Karl Jaspers。1883〜1969年)でした」(コラム#1203)
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 古代ユダヤで生まれたのが一神教であり、個人や一族郎党を超えた、超越的規範が提唱されたのに対し、古典ギリシャで生まれたのが、哲人支配者による、演繹科学的論理をもってする被支配層統治の提唱であり、この二つを統合し、普及させたのが古代ローマでした。
 この古代ローマ文明を継受したのがプロト欧州文明であり、同文明においては、人々は、支配層であれ被支配層であれ、超越的規範及び演繹科学的論理でもって羈束されていたが故に、最低限度の信頼関係が、社会内において成立しえていた、と考えられることが、その理由です。
 (ただし、古代ユダヤ文明も古典ギリシャ文明も、そして、古代ローマ文明も、更には、プロト欧州文明も、著しい女性差別文明であった点では支那文明と大同小異です。)
 支那は、古代ユダヤ文明にも古典ギリシャ文明にも、更には古代ローマ文明にも、地理的に遠く離れていたこともあって、殆んど影響を受けることがなかったため、(その核心において人間主義そのものであるところの)仏教を限定的であれ継受したにもかかわらず、支配層と被支配層の間を含め、一族郎党を超えた信頼関係を醸成することが基本的にできないまま、現在に至っているわけです。」(コラム#6967)

  (3)中国の欧州文明・アングロサクソン文明・日本文明の継受

    ア 欧州文明継受論者達

 ●カトリシズム(洪秀全)

 洪秀全(1814〜64年)は、科挙に何度も落第をした後、「キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興し天王を自称、南京を首都として清に反旗を翻し、国号を太平天国とした(太平天国の乱<:1851〜64年>)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%A7%80%E5%85%A8

 ●ナショナリズム(孫文)

 孫文(1866〜1925年)らは、「武力革命によって清朝を打倒し、フランスやアメリカのような共和制を確立していこうと<した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD
 孫文は、「中華人民共和国と中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87

 ●ファシズム(蒋介石)

 蒋介石(1887〜1975年)は、「日本の東京振武学校修了、第13師団高田連隊隊付実習」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3

 「長男の経国をスターリン主義のソ連へ、「次男」の緯国をファシズムのドイツへ留学、というより「同化」させるべく、送り込んだ」(コラム#6605)「腐敗したファシスト/赤露匪賊<の頭目>」(コラム#6600)

 蒋介石は、1927年に結婚した宋美齢(孫文の妻の宋慶齢の妹)との約束に従って、1929年キリスト教徒となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%BE%8E%E9%BD%A2

 1933(ヒットラーのドイツでの権力掌握)〜38年(日支戦争勃発の1年後)の間、蒋介石はファシスト国家のドイツと事実上の同盟関係にあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C

 ●スターリン主義(毛沢東)

 毛沢東(1893〜1976年)は、日本大好き人間としてスタートするが、北京大学の聴講生時代に共産主義者となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
 中国における最初期共産主義者の陳独秀(1879〜1942年)は成城学校(現、成城中学・高等学校)に留学、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80
その友人の李大ショウ(1888〜1927年)は早稲田大学に留学しているところ、李は日本留学中に共産主義思想に感化されており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A4%A7%E9%87%97
毛が北京大学の司書補であった時、李は上司の図書館長だった。
 彼は、「ソ連の筋金入りのスターリン主義者ですら呆れるほどのスターリン的恐怖政治を最初から行っていた」(コラム#6346)
 日中戦争の時期には、「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している・・・1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。・・・なお、毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無い。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

 「<彼は、>徹底したエゴイストであったが故に、支那の歴代統治者達とは違って自分の子孫に自分の後を継がそうとしなかった」(コラム#5634)

    イ アングロサクソン文明継受論者

 ●アングロサクソン文明継受に着手しようとして暗殺された宋教仁

 宋教仁(1882〜1913年)は、法政大学と早稲田大学に学ぶ。
 中華民国が成立すると、その大総統制(大統領制)に代わる議院内閣制を唱え、国民党・・後の中国国民党とは異なる・・の事実上の党首として1912年12月の総選挙で圧勝したが、1913年3月、大総統袁世凱(一説には孫文)によって暗殺される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%95%99%E4%BB%81
 この後、中国は、袁世凱の皇帝僭称(1915〜16年)と死(1916年)を経て、長期内戦期に突入する。

ウ 日本文明継受論者達

 ●日本文明継受を始めて唱えた黄遵憲

 「黄遵憲(<こうじゅんけん=>Huang Tsun-hsien、1848〜1905年)・・・<は、>清国の初代駐日公使の何如璋・・・と共に、書記官として1877年に来日し、1882年まで日本に在勤した・・・
 当時日本ではロシアの南下に極めて警戒感を持っており、朝鮮がロシアの影響下に入ることを極度に恐れていた。こうした意見に感化され、黄遵憲たちは日本よりもロシアへの警戒を募らせていったのである。・・・
 貧しく質素であっても庭木を愛する素朴な庶民、客が訪ねくれば細やかな気配りをする妻女、そして積極的に海外のことを知ろうとする日本人の好奇心など、黄遵憲は日本の美点を素直に認め賞賛している。・・・
 <その黄は、>1882年・・・、サンフランシスコ総領事へと転任し、日本を離れた。・・・
 <彼の>在米華僑問題への思いは「逐客篇」という詩に詳しい。この中で初代大統領ジョージ・ワシントンが万国と国交を持ち、いかなる民族も平等に住むことができると宣言してより百年も経たないのに、今のアメリカ政府はその言葉に背いても恥としない、と述べており、自由・平等を国是とするアメリカにおいてなされる非人道的な行為に黄遵憲が怒りを覚えていたことがうかがえる。・・・
 3年後黄遵憲は一旦帰国し、『日本国志』・・・<を>完成<させ>た。・・・ 
 この『日本国志』は・・・中国における明治維新観を決定づけたばかりか、それに範を取った改革、戊戌変法を推進する原動力の一つともなった・・・。戊戌変法を推進した康有為・梁啓超ら変法派は改革案の立案に際しこの書から着想を得ている。・・・
 また晩年には一族の若者や門弟を日本に留学させるなど、親日的である点は終生変わらなかった。・・・黄遵憲は、日中が手を結び、共に西欧列強に対抗することを夢見ていたのである。・・・」

 <さて、>注目すべきは、四点です。
 すなわち、黄が、一、横井小楠コンセンサスを当時の日本人と共有するに至っていたこと、二、米国(ひいては欧米)に嫌悪感を抱くに至っていたこと、後半生を、三、支那による日本文明の継受、そして、その上での、四、日支両国の提携、に捧げたことです。
 思うに、トウ小平等の中共の指導者達は、先人達の黄の考えの実現に向けての努力が不十分であったことが清滅亡後の支那に大きな悲劇をもたらした、との痛切な認識を抱いた上で、遅ればせながら、徹底的な日本文明継受戦略たる改革開放戦略を開始し、現在に至っているのではないでしょうか。
 (思うに、黄は、一流の詩人でもあったからこそ、日本文明の精髄であるところの、人間主義に気付き、感嘆することが容易にできたのではないでしょうか。
 また、支那と米国との関係の初期が、(日本と米国との関係の初期とは大違いで、)かくも屈辱的なものであったことが、潜在的に、その後の支那人の米国観を規定して現在に至っている、と我々は考えるべきでしょう。)
 このような私の読みが正しいとすれば、日本が、米国から「独立」することは、日本自身にとってのみならず、支那のためにも急務なのであって、その前提として、黄の米国への嫌悪感を日本人が理解し、共有する必要がある、と私は考える次第です。」(コラム#6789)

 ●日本文明継受に着手したが挫折した汪兆銘

 汪兆銘(1883〜1944年)は法政大学に学ぶ。
 辛亥革命の結果1912年に成立した中華民国の成立宣言を起草、1925年の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。その後、中国国民党政権において断続的に重責を果たすも、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進める。1940年南京国民政府樹立、その主席となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98

 米英が日本を対米英開戦へと追いつめていなければどうなっていたか?

 ●日本文明継受の第一段階に成功したトウ小平

 トウ小平(1904〜97年)は、フランスで労働者として働き、中国共産党に入党、ソ連のモスクワ中山大学で学んで帰国。
 「1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察を精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。・・・
 同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた<が、この時点で、トウは、>・・・事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3

 「1985年3月28日に、トウが、自民党の代表団と会った時に、今中共で起こっていることは、毛沢東が行った中共成立に至る第一革命に対するところの、「第二革命(second revolution)」である、と初めて言明し、以後、これが中共当局の公式用語として確立するに至った・・・ことは、極めて重要であると考えます。
 いくらなんでも、トウは、毛の共産主義革命に対するに自分の資本主義革命或いはファシズム革命、というニュアンスで「革命」という言葉を使ったのではないでしょう。
 私は、日本型経済体制を一種の社会主義と評価していた彼が、日本型経済体制化、というニュアンスでこの「革命」という言葉を使ったと思うのです。」(コラム#6196)

 (「昼は老(小平)のいうことを聞き、夜は小(麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の(小平と麗君)に支配されている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%B3 )

 (トウ小平が仕込んだ反日政策を江沢民は短期間の親日政策の後に強力に推進したが、これは彼の父親が対日協力者だったことも与っている。(コラム#6666))

 ●日本文明継受の第二段階に着手した胡錦濤・呉邦国・温家宝トリオ

 「<中国共産党序列ナンバーワンの>胡錦濤<(1942年〜)>主席と<ナンバースリーの>温家宝首相<(1942年〜)>の2人は、・・・胡耀邦譲りの親日家であ<るところ、この2人に、ナンバーツーの>呉邦国<(1941年〜)全人代委員長を加えた3人は、日本型政治経済体制の一環たる、>・・・先の大戦勃発直前の時点以降の、自由選挙を前提にしつつ、政治を安定的に推移させ、かつ社会を調和的に維持・発展させてきたところの、日本の大政翼賛会体制・・戦後の自社二大政党体制(55年体制)も、つい最近までの多党分立もその亜種に過ぎない・・に倣った政治体制の中共、と言うより支那、での樹立を目指しているのであり、これが彼らの「政治体制改革」なのである、と見たらどうか、と私は考えるに至っているのです。
 この「政治体制改革」実現のための前提、ないしは手段が、「文化体制改革」、すなわち人民の人間主義化、であると見たらどうか、ということです。

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<文化体制改革>

 「胡錦濤政権は2011年10月に開催された中国共産党第17回中央委員会・・・全体会議・・・において「文化体制改革」<を打ち出した。>」(コラム#6653)
 「2012年1月6日、今度は国家主席・胡錦濤が中国共産党政治理論雑誌『求是』に・・・「文化体制改革」に関して、以下のようなメッセージを添えている。
 国際敵対勢力が我が国を取り囲み、必死で西側化し分裂化させようという戦略を推進しており、思想文化の領域こそが西側が長期にわたって浸透させようとしている重要な領域であることを、われわれははっきりと認識しなければならない。
 この意識形態の領域における闘争の深刻さと複雑さを、われわれは深く認識しなければならない。そのために警告を鳴らし続け、警戒を緩めず、防御と対応に強力な措置を施さなければならない。
 <胡錦濤は、>このように警告し、この闘いに勝つには、「人を中心に置いて、人民の日々高まる精神文化のニーズを満たしていく以外にない」と強調した。」(コラム#6655)
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 このように考えて、初めて、3人が、実際の民主化を殆んど進展させなかった・・・理由が分かりますし、<胡錦濤の>「コントロール可能な民主<主義>」、・・・温家宝<の「「本当に人々に属した」・・・民主主義」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E5%AE%B6%E5%AE%9D
>・・・<呉邦国の>「多党制の政権交代、三権分立および議院両院制は絶対に実行しない」、に込めた意味が理解できますし、「<西側>国際敵対勢力」による西側型政治体制の推奨活動を遮断するために「ネット言論の規制」をしたことの意義も腑に落ちるというものではないでしょうか。
 (「多党制の政権交代」の否定は大政翼賛会推奨であり、「三権分立」の否定は議院内閣制の推奨であり、「議院両院制」の否定は、日本型政治体制のほぼ唯一の欠陥である、参議院的な第2院の排斥でしょう。)
 このように、中共前政権の3人は、阿吽の呼吸の下に、その前の江沢民政権が逸脱的に推進した反日政策の親日政策への切り戻しを鋭意行ったわけであり、この路線を現在の習近平政権も堅持している、と私は考えています。」(コラム#6657)

 ●習近平

 「ただし、2012年11月15日に中共総書記に就任した習近平・・・は、同年9月11日の野田民主党政権による尖閣3島の国有化に藉口し、かつ、同年12月末における安倍自民党政権樹立を見越しつつ、同年12月初から、尖閣問題で対日大攻勢を仕掛ける・・・等、江沢民時代の反日政策、就中反日教育の「成果」を活用する形で、一ひねりした、芸術的とすら言える親日政策をとり始めた、とも私は考えるに至っている次第です。」(コラム#6657)

 具体的には、日本に学べキャンペーンの推進(含む日本旅行の奨励)と、東シナ海や南シナ海等における挑発、対日歴史認識攻勢の継続、の並行。(上掲及びコラム#7175、等)

 (日本型政治経済体制については、最終回のセミナーで改めて取り上げる。)
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<中華思想>

 中華思想(華夷秩序)を強調したのは、宋、清、中華民国/中華人民共和国だが、宋は遼や金への、また、清は「夷」による征服王朝たることの、それぞれのコンプクレックスを、言葉の上だけで解消を図ったものに過ぎないところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
そのことは、上述したところの、洪秀全、黄遵憲、そして中華民国/中華人民共和国における一連の指導者達の、外国文明継受に向けての狂奔ぶりからも明らかだろう。
 だから、昨今の中共の、華夷秩序観をちらつかせた対外政策についても、それをホンネと受け止めることには慎重でなければならない。
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<墨子>(以下、スライド参照)

(BC450?〜390?年):
兼愛(平等)と非攻(非戦)を説いたことで知られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90
「墨家の思想は、生活必需品の増産を至上命題とする唯物論であり、かかる墨家の思想、すなわち義の解釈権を君主が独占し、その義を全家臣及び民衆が信じ、生活必需品の増産に勤しまなければならない、という、マルクスレーニン主義に極めて類似した全体主義思想<だっ>た。・・・<そして、>周の天命論・・儒家もこれを当然視していた・・に対し、義の理論を提起することによって君主交代の論理を提供した」(コラム#1640)

<始皇帝>

(BC259〜210年。秦王:BC246〜221年。皇帝:BC221〜210年):
周時代までの封建制に代えて郡県制を導入することによって皇帝の中央集権的専制体制を確立し、以後2000年にわたって継続されることとなる。(兼愛)
思想統制(焚書坑儒)を行った。(義の独占/唯物論)
軍事目的で、万里の長城、大運河、大幅員道路、を建設した。(非戦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

<小平>

(1904〜97年。最高権力者:1978〜97年):
1978年に改革開放路線を決定した。(日本化戦略)
当初民主化を擁護していたが、1980年に態度を変え、1986年には「・・・党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は<民主化をやってはならない>」とした。(まず経済面で日本化、それから政治面でも日本化)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
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 一人題名のない音楽会です。
 ボリス・シュトコロフの3回目です。

Old lime tree(注)
https://www.youtube.com/watch?v=yY3ZjLsb7kQ
 ギター演奏 
https://www.youtube.com/watch?v=X9wxbFalw3w

(注)ギター編曲者はSergei Rudnevらしいが、作曲者等は分からなかった。

you have forgotten Andrej Oppel作曲 Pavel Kozlov作詞
https://www.youtube.com/watch?v=WEe59V_-tdM

Slow down coachman(コラム#6101)
https://www.youtube.com/watch?v=oS4Spzysk50

JINGLE BELLS N.Bakaleynikov作曲 A.Kusikov作詞
https://www.youtube.com/watch?v=iFCEbprUZEE

DUBINUSHKA(注)
https://www.youtube.com/watch?v=pi3awy-Bs2E

(注)棍棒。肉体労働者の労働歌。
   英訳歌詞
Verse 1:
I have heard many songs all around the land
I have heard many songs all around the land
But my memory holds just one song of them all
That's the song of the body of workers.

Refrain:
Hey, Dubina, the green one!
Hey, you, help us do the labor hard, the labor hard!
We pull it, and pull it,
And move it!!

Verse 2:
Canny Englishmen did tons of gadgets invent
As to do all the labors routinely.
Russian men strive with hands till they're tired to death
Then they sing their hearts with "Dubina"!

Refrain:
Hey, Dubina, the green one!
Hey, you, help us do the labor hard, the labor hard!
We pull it, and pull it,
And move it!!

Verse 3:
Oh, new times, come to us! When the workers wake up
When they straighten the backs from the labor.
When they crush all who suck their strength, their blood
Crush with their beloved Dubina!

Refrain:
Hey, Dubina, the green one!
Hey, you, help us do the labor hard, the labor hard!
We pull it, and pull it,
And move it!!
http://www.dhr.history.vt.edu/modules/eu/mod03_1917/evidence_detail_06.html

Shine, Shine, My Star(注)(コラム#3981)  Pyotr Bulakhov作曲 Vladimir Chuyevsky作詞
https://www.youtube.com/watch?v=D524ucRm9Ic

(注)第一次世界大戦当時に「復活」したが、ロシア内戦中の白軍の歌と目され、ソ連ではしばらく「冷遇」された。
   英訳歌詞
Shine, shine, my star,Shine, affable star!You are my only cherished one,Another there will never be.2.If a clear night comes down upon the earthMany stars shine in the skies,But you alone, my gorgeous one,Shine in pleasant beams to me3.O blessed star of hope,The star of love of magic days,You will be eternally unwitheringIn my longing soul.4.By the heavenly strength of your beamsMy whole life is illuminatedAnd if I die, over my graveShine, shine on, my star!
http://en.wikipedia.org/wiki/Shine,_Shine,_My_Star
 ロシア・ロマンス(romance=芸術歌)として、Black Eyes(前出)、Along the Long Road(→Those Were the Days)(コラム#3841、3985)と並ぶ三大傑作の一つ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Romance_(music)

(続く)
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太田述正コラム#7178(2014.9.14)
<新しい人類史?(その6)>

→非公開