太田述正コラム#6963(2014.5.28)
<支那文明の起源(その2)>(2014.9.12公開)

 では、このような、南北二系列の文化は、それぞれどんな特質を持ち、また、北の優位の下で両者が混淆して形成された支那文明は、結果として、いかなる特質のものになったのでしょうか。
 以下、申し上げるのは、現時点での私の粗々の仮説です。

 「稲作地域出身の人々は小麦生産地域出身の人々に比べ、考え方が相互依存的で全体の和を重んじる」(コラム#6930)という科学的知見や、遊牧民の、(リーダーを選挙で選ぶという)民主主義的側面(コラム#626、633〜537、643、658、659、668、671)ないし民本主義的側面(注2)に関する私の以前の指摘、更には、南は水田耕作文化で北は畑作文化と遊牧文化の複合体という実態、等を踏まえれば、南の人民は人間主義的で北は非人間主義的であったのに対し、南の支配者に比して北の支配者は、より民主主義的でかつ民本主義的であった、と考えたいところです。

 (注2)「「遊牧民系である<鮮卑系たる>唐<の2代目の太宗>と<女真たる>清の2代目<の>康煕帝・・・が稀代の名君であった<とされてきた>ことは偶然とは思われません。」(コラム#1562)、「<支那には>真に民本主義的な統治を行った皇帝がか・・・少な<く>、しかも、その少ない代表例が2人とも遊牧民系の王朝の初期の皇帝であった<わけです>。」(コラム#4858)

 さて、裏付け材料に乏しい現状では相当論理の飛躍があることは認めますが、両者のそれぞれの長所は相互に打ち消し合い、短所は相乗的に増幅された形で統一支那文明が形成された、と私は見たいのです。
 すなわち、北の支配層は、北の支配層間にその痕跡が残っていた可能性がある広義の選挙制に、新たに隷属させた南の旧支配層を参加させないためにも、選挙制の痕跡を払拭するとともに、北の人民に対する民本主義的統治を、信頼関係の全くない南の人民(及び旧支配層)に及ぼす必要性を認めず、実質的に止めてしまい、形式的には引き続き民本主義的統治を標榜しつつも、それを叛乱を生起させないギリギリの範囲で搾取を続ける統治へと堕してしまった、と見るわけです。
 そして、南の人民(及び旧支配層)は、かつては、北の人民(及び支配層)に比して、より人間主義的であったがゆえに、水田耕作によって生じた余剰を巡っての争いに関しても、一族郎党が集住する環濠集落を本格的な都市国家へ、そして更には領域国家へと拡大強化するまでもなく対処が可能であったことから、人間主義が一族郎党を超える域まで達しないうちに、つまりは、人間主義的の「的」がとれないまま、相対的に大規模な戦乱が続いたために軍事により長けることとなり、軍事力の拠り所たる領域国家を形成するに至っていたところの、北の諸国更には北の統一国家によって、(南における、寒冷化による米収量の減少も与って(?)、)個別に次々と征服されてしまい、(私が命名したところの人間主義未満の)一族郎党命(いちぞくろうとういのち)主義が、北の人民(及び支配層)の非人間主義、すなわち利己主義と混淆し、利己主義/一族郎党命主義をエートスとする統一支那文明が形成された、と見るわけです。
 これに関連し、北においては、南に比べれば豊かでも、従ってまた、平和志向的ではなかったものの、畑作だけでそれなりの収量を確保できたことから、ゲルマン人のように戦争を生業にするようなことはなく、また、遊牧民由来の戦争志向的傾向も耕作民的傾向によって緩和されていたことから、戦争志向的であったとまでは言えなかったところ、南は、一層戦争志向的ではなかったことから、統一支那文明は、余り戦争志向的でなく、従って余り対外膨張的ではない文明たらざるをえなかった、ということではないでしょうか。(注3)

 (注3)こんな支那文明の平和志向性に適合的であり、平和志向性を下支えしたのが、後に支那に伝来した仏教であった、と言えるのではなかろうか。
 但し、累次の廃仏により、支那における、仏教の(平和志向性を含めた)影響力は限定的なものにとどまったと見るべきだろう。
 すなわち、「<支那>への仏教の伝来は、1世紀頃と推定され・・・シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される<ところ、>・・・北周の武帝<が早くも>仏教・道教二教の廃毀<行っており、>・・・<その後、>隋の文帝<が>・・・仏教治国策を展開する・・・<ものの、唐の>武宗の会昌年間(841年〜846年)の・・・仏教弾圧・・・を契機として、仏教の勢力は急速に衰えることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99

 以上のような統一支那文明確立へのプロセスは、北に夏(BC2070年頃〜BC1600年頃)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)
(前出)が成立する以前から始まっていたと考えられるところ、殷(BC1600年頃〜BC1046年頃)(注3)、周(BC1046年頃〜BC256年)・・更に細分化すれば、西周(BC1046年頃〜BC771年)、春秋時代(BC770〜BC403年)戦国時代(BC403〜BC221年)(注4)・・を経て秦の成立(BC221年)に至って完了した、と私は、現在、考えています。

 (注3)「殷の王位継承<は、>・・・基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかった」点に、北における遊牧民の選挙制の痕跡がうかがえる。
 なお、「殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になってい<くと、>・・・歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化<した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7 (「」内)
 (注4)「春秋末から戦国にかけて、中国の国の形態は、都市国家・・・<たる>邑・・・から領土<(領域)>国家へと発展していった。・・・
 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集の経済を営む非定住の部族が生活していた。彼らは「夷」と呼ばれ、しばしば邑を襲撃し、略奪を行った。」(ウィキペディア上掲)

 (日本列島に南の人々が渡来したのは、この間の戦国時代です。)
 それでも、この統一支那文明は、現存する世界最古の文明である、と言っていいでしょう。
 この統一支那文明確立への最後の仕上げを行うこととなるイデオロギーを提供したのが墨子であった、と私は見ているわけです。

(続く)