太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#6961(2014.5.27)
<支那文明の起源(その1)>(2014.9.11公開)

1 始めに

 表記について、本日のディスカッションで申しあげたような次第で、必要に迫られ、取り急ぎシリーズに仕立てました。
 欧州文明の起源についても取り急ぎシリーズに仕立てたばかりですが、同文明については、イギリス(アングロサクソン)文明との対比において、かねてから考察を行ってきており、断片的にはコラムで書いてきていた実績があったのに対し、支那文明の起源については、殆んど考察したことさえなかっただけに、かつまた、後述するように、日本語典拠と英語典拠の間にギャップがあるために、シリーズに仕立てるにあたって、大変苦労させられました。
 いや、今でも苦労が現在進行形である、と申し上げた方が正確でしょう。
 そういうわけで、読者の皆さんと私の間で、知識において、殆んど違いはないと考えられるところ、どしどしお気づきの点あらば、典拠付でご指摘いただきたいと思います。

2 支那文明の二つの源

 ある日本語ウィキペディアは次のように言っています。
 
 「長江文明・・・とは<支那>長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。
 また稲作などは長江文明から海を渡って日本に伝わった。朝鮮半島へも直接或は日本経由で伝わったとする説もある。・・・
 初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E 

 このウィキペディア、典拠が不十分なのですが、後出の安田喜憲(注1)の説に多くを拠っているようです。

(注1)1946年〜。「1970年に立命館大学文学部地理学科を卒業。1972年東北大学大学院理学研究科地理学専攻修士課程修了、1974年同博士課程中退。 1977年、広島大学総合科学部助手となり、1988年に日文研助教授、1994年に教授に就任。1997年には京都大学大学院理学研究科教授を併任する。1978年東北大学より理学博士。・・・2012年に日文研を定年退任、東北大学大学院環境科学研究科・特任教授となる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E5%96%9C%E6%86%B2

 もう一つの日本語ウィキペディアは次のように言っています。

 「先秦時代、苗族は、苗民、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいた。・・・<この>三苗<は>・・・長江文明に属すると見られる。・・・三苗は母系集団であり、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化と対立した。この龍山文化集団が夏王朝に繋がる遊牧民族的な父系集団と見られる。中原地域は黄帝と炎帝の活躍した地域で、炎黄集団は・・・一度衰退し、龍山文化期に復興し三苗民族を征服した後、夏王朝を興す。黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものと考えられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3) 

 これには、先ほどのよりはまともに典拠が付されています。
 更に、ある好事家は、次のように言っています。

 「長江中流域にB.C.14000頃に稲作を行っていたとされる遺跡が発見されました。これまでは、中国の最古の文明は、黄河流域と考えられており、 また世界的に見ても小麦農業はB.C.12000頃に始まったとされているので、長江の稲作農業は世界最古といわれる文化と考えられるようになりました。
 中国の古代文明は黄河一極ではなく、少なくとも二元的あるいは多元的な起源があると考えなくてはならないようになったのです。・・・
 <長江流域では、>多くの余剰を持つ者と持たない者との貧富の差は広がり、富を持つ者は自らの財産を守る必要性がでてきました。 そこで城壁都市が発生したのです。このころの遺跡では石斧や鋭利な武器が大量に出土しています。富の争奪が激しい戦争を伴ったことを意味しています。 そしてさらに富む者は周辺に軍事行動を起してそれらを吸収して、さらに巨大な都市を形成していきました。・・・
 ちょうどB.C.2000頃は夏王朝が勃興したとされる年代です。 古代の聖王堯・舜・禹はしばしば南征を行いましたが、 この神話は実際の勢力争いを反映していると考えられます。<すなわち、>・・・黄河文明圏勢力と争い、・・・長江文明は衰退したのです。しかしその文化は確実に黄河文明に引き継がれました。」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point39.html

 これらの記述は相互に殆んど齟齬はなく、私は、全体として、かなり説得力ある説明になっていると思います。
 ただ、ここで大きな問題があります。
 一つには、このようなラインで記述をしている英語典拠をすぐに発見することができないことです。
 例えば、農業史に関する英語ウィキペディアは次のように言っています。
 
 「B.C.7000年までに、種蒔きと収穫がメソポタミアに到来した。・・・
 B.C.8000年までに、ナイル渓谷において農業(farming)が根を下ろした。
 ほぼ同じころに、独立して、極東、恐らくは支那、において、小麦ではなく米を主穀物として、農業(agriculture)が生まれた(developed)。・・・
 支那では、米とキビ(millet)が、B.C.8000年までに飼育化された(domesticated)のだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_agriculture

 本来、時系列的に記述すべきところなのに、メソポタミアより後にエジプトを記述しているのは、支那で最初に農業が始まったことを認めたくないために、最新学説であるエジプトの話を急遽挿入したためだ、と勘繰りたくなります。
 しかも、支那で農業が始まった時期についても、日本の、そして恐らくは支那の、最新説を用いず、エジプトの時期に合わせた記述にしている、とも勘繰れます。

 もう一つ問題があります。
 支那内における、農業の二つの起源と、後発側の先発側の征服について、英語典拠で触れているものをすぐ発見できなかったのは、英米の人々の極東の古代史への関心の低さの反映だと解すべきでしょうが、どうして、後発側が先発側を征服できたのか、その理由がはっきりしないことです。
 ご承知のように、米の生産性は、農作物の中で相対的にダントツで高いわけであり、それを擁するところの、しかも先発側が、小麦等しか生産しておらず、しかも後発側に征服されてしまった、というのは解せないわけです。
 これについて、興味ある説を唱えているのが、前出の安田喜憲であり、彼は、ユーラシア大陸全体を襲った寒冷化により、支那の水田耕作が打撃を受けたことで先発側が弱体化した、というのです。
 彼は、この寒冷化が、縄文人の減少と南下(コラム#6839参照)及び先発地域民の日本列島渡来のほかにも、「寒冷化がナイル地域の乾燥化を招き、ナイルの水位が下がって氾濫規模を縮小すると生産力が低下し、ツタンカーメンなどのエジプト新王国時代はこの時期に終焉し・・・<欧州>大陸ではゲルマン民族の南下によりケルト人をライン川東岸から追い出し・・・地中海沿岸では民族移動の嵐が起こりミケーネ文明やヒッタイト帝国が崩壊し・・・インダス川流域ではアーリア民族が南下して先住のドラヴィダ人をインド南方に追いやった。」と主張するのです。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04_01kannreika_gamotarasita_jyoumonnhoukai.html (彼の『縄文文明の環境』『龍の文明・太陽の文明』に拠っているサイト)

 しかし、遺憾ながら、このようなことを記述している英語典拠もまた、すぐには発見できませんでした。

 いずれにせよ、支那文明の源には2つの異なった文化がある、ということはどうやら確からしい、と思います。

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/