太田述正コラム#6951(2014.5.22)
<欧州文明の成立(その5)>(2014.9.6公開)

⇒欧州的封建制についての以上の説明は、「共有地の享有、及び、限定的な例外を除くところの私的所有権の不存在」を特徴とするテュートン人の慣習をその起源とする以前の(コラム#6751での)私の説明と微妙に食い違っていることにお気づきでしょうか。
 このテュートン人がゲルマン人ではなくケルト人であるという説さえ存在する(コラム#6753)ことからすれば、なおさらです。
 その折には、もっぱらイギリス史に係る英語ウィキペディアを典拠にしたわけですが、今回典拠にしたところの、ドイツ史に係る英語ウィキペディアとの違いは、イギリス史に係る英米の学者達と、ドイツ史に係る英米の学者達の平均的スタンスの違いを反映している、ということなのかもしれません。(太田)

 さて、ここで、欧州的封建制を、被支配者の側からも見ておきましょう。
 (以下「」内は、http://en.wikipedia.org/wiki/Serfdom による。)
 
 「農奴(/農奴制=serfdom≒serf=農奴)は、封建制下の農民(peasant)達の、とりわけ荘園制(manorialism)に係る、地位(status)だ。
 それは、主として、欧州において、中世盛期<(注6)>の間に生成(develop)し、19世紀央まで若干の諸国で続いたところの、束縛(bondage)の境遇(condition)だった。・・・

 (注6)「<欧州>史において11, 12, 13世紀を中心とする時代」
http://ejje.weblio.jp/content/High+Middle+Ages

 農奴の境遇は、生誕時に継承された。
 農奴の諸義務を引き受けることによって、農奴達は、自分達自身を束縛しただけでなく、自分達の将来の子孫も束縛したのだ。・・・
 <欧州の>中世の農奴制が本格的に始まったのは、10世紀前後におけるカロリング帝国の分割の時だった。・・・
 西欧における農奴制の衰亡は、時に、欧州に1347年に到来したところの、黒死病に起因するものとされてきた。
 衰亡が始まったのは、その頃より前であるにもかかわらず・・。
 ルネッサンスより後では、西欧の大部分で、農奴制はどんどん少なくなって行ったけれど、それより前には余り一般的ではなかったところの、中欧及び東欧では増えて行った。(この現象は、「後期農奴制(later serfdom)」として知られている。)
 東欧では、この制度(institution)は19世紀央まで存続した。
 それは、オーストリア帝国で1848年まで存続し、ロシアで廃止されたのは1861年だった。
 フィンランド、ノルウェー、及び、スウェーデンでは、封建制は樹立されず、農奴制は存在しなかった。
 しかし、農奴制に類似した諸制度が、デンマーク(・・・1733〜88年の間)、そして、その臣国(vassal)たるアイスランド(より制限的・・・1490〜1894年の間)、の二か所で存在した。・・・
 荘園領主(lord of the manor)は、ローマ人が自分の奴隷達を売るようには、農奴を売ることができなかった。
 その一方で、仮に、彼が土地の一片を処分することを選べば、その土地に係る(associated with)農奴達は、彼らの新しい領主に仕えるために、その土地のもとにとどまり、その新しい領主は、その土地にふさわしい、長きにわたって獲得された諸慣行に関する、彼らの知識によって裨益した。
 また、農奴は、彼の諸土地を許可なく放棄(abandon)することはできなかったし、それらの諸土地に関し、売却可能な権利を所有することもなかった。・・・
 イギリスでは、1086年のドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)<(コラム#5009)>・・・が、同国が、自由保有権保有者(freeholder)達12%、ヴィラン(villein)<(注7)>達35%、コッター(cotter)<(注8)>達及びボーダー(bordar)<(注9)>達30%、奴隷(slave)達9%、から構成されていることを示した。」

 (注7)日本の電子辞書は、「(封建時代の英国の)農奴」としている。
 (注8)同じ日本の電子辞書は、「中世の英国の農奴(medieval English villein)」としている。
http://ejje.weblio.jp/content/cotter
 (注9)同じ日本の電子辞書は、英文典拠の記述をそのまま掲げている。↓
 A person ranking below villeins and above serfs in the social hierarchy of a manor, holding just enough land to feed a family (about 5 acres) and required to provide labour on the demesne on specified days of the week.
http://ejje.weblio.jp/content/bordar
 訳せば、「荘園の社会的階統制の中で、villein達の下、serf達の上に位置づけられる人間であり、(5エーカーを超えるところの、)家族を給養するに丁度十分な土地を持ち、週の中の特定の日々において、<領主の>領地(demesne)で労働力を提供することが求められる。」となる。

⇒この英語ウィキペディアが、イギリス以外のデータを載せていないことも困ったものですが、それはさておき、少なくとも、この日本の電子辞書の訳語を手掛かりに、この英語ウィキペディアの最終段落を読解しようとしても、不可能であることがお分かりいただけたことと思います。
 どうしてそんなことになるのかと言えば、それは、決してこの電子辞書の編纂者が無能だからではないのであって、ドゥームズデイ・ブックはウィリアム征服王がつくらせたところ、彼が、イギリスには存在しなかった封建制度を故郷のノルマンディー(フランス)からイギリスに持ち込もうとして・・結局、それに殆んど失敗するのだけれど・・、イギリスの農民の実態調査の結果を、あたかも既に封建制が存在しているかのような形で整理しようとしつつも、いくらなんでも狭義の自由保有権保有者以外を全て「農奴」として一括りにするわけにもいかず、訳の分からないものと言って悪ければ、実態から乖離した複雑な代物が出来上がった、ということなのでしょう。
 私が、「個人主義の起源」シリーズ(コラム#6639〜)で明らかにしたように、当時のイギリスの農民の大部分・・狭義の自由保有権保有者はもとより、villeinもcotterも・・は、事実上、広義の自由保有権保有者であって、欧州の農奴に相当するのは「奴隷」あたりのみであったのではないか、というのが私の見立てなのです。(太田)

(続く)