太田述正コラム#6949(2014.5.21)
<欧州文明の成立(その4)>(2014.9.5公開)

ローマの地におけるゲルマン人の諸王国という、氏族社会の期間の後半では、土地の全てが国王に所属するというのが普通だった。
 彼だけがその臣民達に土地を配分できた。
 これらの臣民達は、通常、家族の一員達、傑出した諸手柄を挙げた戦士達、及び貴族達(noblemen)だった。
 この土地はその臣民の財産にはならなかったのであって、臣民個人に(in persona)手交された(handed over)。
 国王または家臣(vassal)が死ねば、その土地は事実上新しい国王に返還された。
 やがて、土地でもって封ぜられられた(enfeoff with the land)人は、彼の家族ともども、その封土(fief)の裨益者達(beneficiaries)となり、恒久的にその土地に縛られたままとなる慣行が生まれた。
 <それでも、>どちらかの当事者が死ぬと、公式の法的儀式である、臣従の礼(homage=Lehnseid)という新たな行為が行われなければならなかった。
 <ただし、>これら諸移行<制度>(transitions)は流動的であり、封爵(enfeoffment)の慣行には諸例外があった。
 家臣は、その地所を、しばしば、通常、より小さな諸断片へと分けて、他のより小さい家臣達へと封じ、彼らは今度は彼に忠誠を誓わなければならなかった。
 土地を貸与(lease)する見返りに、国王は、家臣とその陪臣達に忠義と忠誠(loyalty and allegiance)を要求できた。
 彼らには、戦争の際に国王に兵士達と支援を提供したり、資金が不足したり身代金が必要になった場合に国王を支援すること、が期待された。
 ローマのパトロン・クライアント関係とゲルマン諸王国における初期の氏族に立脚した封建的関係とは、中世初期の間に封建法、或いはレーンスレヒト(Lehnsrecht)・・国王が頂点にいるピラミッドを効果的に形成したところの、法的社会的な一連の諸関係・・へと溶け合った。
 レーンスレヒトの施行は、古代末期と中世初期の期間における貨幣流通の減少と手を携え<て進行し>た(associated with)
 貨幣ではなく、土地だけが家臣を国王に縛った(bound)。
 <何と言っても、当時は、>貨幣に比べて、土地は潤沢にあった<からだ>。
 国王達・・リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)--強制的(compulsory)忠誠<(注4)>--を見よ・・や、少なくとも中世初期においては、僧侶・・オットー・ザーリアー神聖ローマ帝国教会制(Ottonian-Salian imperial church system)<(注5)>を見よ・・でさえ、一人の国王ないしもう一人の国王<・・すなわち二人の国王・・>の家臣達になることができた。

 (注4)リチャードがフランス国王のルイ7世の家臣になっていたのはイギリス国王になる前の間だけ(コラム#4472)
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_I_of_England
だし、これは「強制的」ではなく「自発的」なものだったので、この表現は一見おかしい。
 しかし、長きにわたり、イギリス国王は、フランスにおいて所領を持っており、それら所領に関しては、イギリス国王は、即、フランス国王の家臣であった、という意味では、リチャードもフランス国王の「強制的」家臣であったと言えそうだ。
 (注5)「歴史学者達の間で、ドイツのオットー・ザーリアー朝期のハインリヒ1世からハインリヒ3世に至る統治者達の教会政策に関して、何か極めて特別なものがあったことについてコンセンサスがある。
 中世の国王の高位聖職者(prelate)達への通常の(normal)依存は、ここでは、意図的かつ体系的な教会の政府の道具(instrument)としての潜在力の搾取へと変貌させられた。
 すなわち、これらの統治者達は、彼らが任命した司教達と大修道院長達を、騒々しく(turbulent)信頼できない世俗的貴族に対する秤の重石として用いたのだ。」
http://ebooks.cambridge.org/chapter.jsf?bid=CBO9780511497216&cid=CBO9780511497216A030
 「ハインリヒ1世からハインリヒ3世に至る統治者達」について説明しておく。
 ハインリヒ(Henry)1世は、フランケン(フランク)人ではないゼクセン家の人間だったが、東フランク国王(ドイツ国王)のコンラート(Conrad)1世(《在位:919年〜》)・・[東フランクのカロリング朝が断絶したあと、貴族による選挙で王に選ばれたフランケン人。(以降、選挙制が慣習化した。)]・・によって事実上後継に指名され、ドイツ国王となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Otto_I,_Holy_Roman_Emperor
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%8E%8B) ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%921%E4%B8%96_%28%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%8E%8B%29 (《》内)
 その息子が、初めて神聖ローマ皇帝となったドイツ国王のオットー(Otto)1世だが、帝位をその子オットー2世、そして孫のオットー3世が継承した後、オットー3世の甥のハインリヒ2世が継承し、そこでザクセン朝(オットー朝)は断絶し、ザーリアー朝のコンラート2世が継承し、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC1%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
更に、その息子のハインリヒ3世(〈在位:〜1056年〉)が継承した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%882%E4%B8%96_%28%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D%29
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_%28%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D%29 (〈〉内)

 カロリング朝期の間に、封建制の下で、それまで独立して存在していた様々な法的諸制度が一緒になったのだ。」

(続く)