太田述正コラム#6937(2014.5.15)
<戦争の意義?(その18)>(2014.8.30公開)

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<脚注:馬の飼育化と3種類の騎兵>

 「馬の家畜化は紀元前4000年頃に現在のウクライナで始まったと考えられている。食肉を得る目的で家畜化され、馬の背に跨る騎乗の技術が編み出されたのは<北アジア>に於いてである。内燃機関登場以前の世界では最速の陸上移動手段として発展を遂げた。
 馬が家畜化されたと考えられる紀元前4000年という時期は、ヤギ・ブタ・ヒツジ(紀元前8000年頃に家畜化)や、ウシ(紀元前6000年頃に家畜化)に比べると遅い。これは、馬は主にステップ気候の寒冷な降雪地帯の草原に棲息しており、また、ウシ等の反芻動物に比べて消化能力や食性が低く太り難いため、食肉用の家畜としては不適格だったためである。ウクライナの草原地帯に進出した人類は紀元前5000年頃のドニエプル・ドネッツ文化期には既に他の地域から連れてきたウシやヒツジを家畜として飼育していたが、この地域は降雪地帯であり、降雪時に雪の下にある草を食べる習性のないこれらの動物は人の助けがなければ飢死してしまうため、家畜として飼養するのは難しかった。ところが、この地域に棲息している馬を見れば、蹄で雪をかきわけて草を食べている。そこで、人類は馬を家畜化する事を思いついたのである。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%AE%B6%E7%95%9C%E5%8C%96
 「遅くとも紀元前25世紀までには北アジアで騎乗が始められていたと考えられている・・・。紀元前20世紀頃から<支那>のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。中東の大国のアッシリアやアケメネス朝<ペルシャ>では騎兵が用いられていた。
 匈奴・スキタイ・・・等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば<支那>北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、<こ>の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車<(前出)>を使うことが多かった。
 紀元前10世紀ごろには地中海沿岸で<も>騎乗が始められていたと考えられている。・・・
 ・・・天武天皇は武官に対して用兵・乗馬の訓練に関する発令をし、大宝律令と養老律令を通じて学制で騎兵隊が強調された。
 次いで現れた武士は主に騎兵であり、騎兵であることは武士の身分を示すものでもあった・・・。・・・武士達は<地理的意味での欧州の>騎士・・・のように、自身らは騎兵として武装し、郎党、従卒からなる徒歩の兵を引きつれ戦争を行った。
 ・・・武士と・・・騎士とで異なっていたのは、<武士>の主要な武器が弓矢であったことである。<つまり、>当時の遊牧系騎兵の大半<と同じ>・・・であった。しかし、日本の武士は、大陸の遊牧民を起源とする軽装かつ短弓を主要武器とする軽装短弓騎兵とは異なる性質のものであり、弓の威力に富んだ長弓を主要な武器とし、重装備である大鎧を纏う重装長弓騎兵であった。日本の騎兵が扱っていた和弓は約2.2mで世界最大の大型弓であり、この騎兵の類型は日本独自にみられるものであった。・・・
 ・・・元寇<では、>文永の役において、出動した鎌倉武士団は・・・騎兵を密集させて集団で戦い・・・モンゴル軍<の>・・・上陸<歩兵>部隊に橋頭堡を築かせず、ついに撃退に成功している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%85%B5
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 古代における五番目の諸軍事における革命は、鉄で武装し鎧を着けた衝撃諸部隊(shock troops)の密集隊形(mass formation)の出現だった。
 これは、騎兵と協同して用いられた重装歩兵(heavy infantry)の密集縦隊群(dense columns)という形で、BC900年前後にアッシリアで始まった。
 <ちなみに、>騎兵は、鎧を着けた男を何時間も一気に運ぶことができる、より大きな馬達の繁殖によって可能となった。
 <とまれ、>BC700年から400年の間に、騎兵の大した支援なしでの重装歩兵に圧倒的に依存したギリシャ諸軍が、西ユーラシアにおける最も効果的な地上軍になった。
 しかし、BC300年までには、マケドニアが騎兵を再導入し、より柔軟であるところの、ファランクス<(前出)>を企画(design)した。
 ところが、BC200年までには、ローマが<アレクサンドロス大王亡き後の>マケドニア系諸王国よりも上を行くところの、再び騎兵を格下げした、軍団(legionary)歩兵という、より柔軟な諸編成を活用(wxploit)することとなった。
 東アジアでは、支那の諸軍が、数世紀遅れて、同じような道を辿った。
 すなわち、BC500年までには密集(mass)重歩兵が、そしてBC400年までには騎兵が・・。
 但し、<支那では、>BC2世紀まで、鉄<製武器>が青銅<製武器>を完全に代替するには至らなかった。
 BC300年までには、南アジアがもう一つの変種(variant)を生み出した。
 鎧を着けた象達が決定的な衝撃の役割を演じ、歩兵が槍に比して弓(bow)により依存するという・・。
 しかしながら、運の良い諸緯度全域のあらゆる所において、BC1000年紀においては、何十万人がありきたりの諸軍が真正面から衝突することによって決せられる諸戦闘による諸戦争に勝利を収めようとする光景が見られたのだ。

⇒私が滑稽に思えてならないのは、モリスが、意識的にか無意識的にかはともかく、2つの大きな歪曲の下に論述を進めていることです。
 1つは、古代においては、南西アジアが常に技術革新で先頭を切ったという歪曲です。
 そのため、例えば、騎兵が北アジアで生まれた話は、抜け落ちざるをえなくなってしまいます。
 (「北アジア」ならぬ「支那」だけを論じた点に、モリスの「悪意」が感じられます。)
 2つは、古代において、地理的意味での欧州を南西アジアの唯一の外延であると見なしている、という歪曲です。
 人類はアフリカで誕生したという意味ではアフリカ以外の諸地域は、全て、紛れもなくアフリカの外延です。
 しかし、古代南西アジア(これに私は地中海周辺地域を加えたい)は、画期的であるところの農業生誕の地でこそあれ、上述したように古代におけるあらゆる技術的革新が起こった地ではないだけでなく、農業が南西アジア/地中海地域以外の全ての地域に波及した・・中には独立して農業が始まった地域もあるであろうことは否定しませんが・・ように、「運の良い諸緯度」内の特定の地域における技術革新は、多かれ少なかれ、「運の良い諸緯度」内外その他の地域に波及して行ったのであり、肝心の農業にしても、地理的意味での欧州は、(南西アジア/地中海地域以外の)その他の地域と同列の存在(被波及地)でしかないからです、
 例えば、古典ギリシャ文明は南西アジア・地中海地域で起こったところ、それは、地理的意味での欧州に最大の影響を与えたかもしれませんが、仏教に仏像を与えたことで、仏教のアジアにおける世界宗教化をもたらしています。(この話は以前したことがあります。)(太田)

(続く)