太田述正コラム#6933(2014.5.13)
<戦争の意義?(その16)>(2014.8.28公開)

 極めてありそうなことだが、指揮統制は諸国家の興隆直後に進化を始め、若い男達に生命の危険を感じる諸状況において言われたことをやらせるよう説得することは、レヴァイアサンにとっての主要な挑戦であったことだろう。
 ユーラシアでの四番目は、諸二輪戦車<(注24)>の導入だった。

 (注24)「古代オリエント世界・・・、古代エジプト、・・・ペルシア、古代<支那>、古代インドなどで使用された。・・・昔は戦車の数をもって戦力とした時代もあった。・・・地形の制約を受けやすく、また戦力維持に要するコストが非常に高くつくため、鞍や鐙などの馬具の開発、遊牧民の軽騎兵による騎馬戦術の開発や定住文化圏への伝播、また品種改良による馬の大型化とそれによる重騎兵の登場などの影響を受けて騎兵に取って代られた。どの地域でも戦車に乗って戦った兵士の多くは貴族やその子弟などで、御者を担当する者はその部下や奴隷が主だった。・・・御者は戦力にならないため、射撃戦に対応する弓兵や白兵戦に対応する槍などのポールウェポン<(下で説明)>などで武装した者を乗車させる必要がある。また車輪自体に動力は無いため、旋回は各馬の調教に熟練した御者の手綱さばき頼みで今で言うところのドリフト走行のように車輪を滑らせて旋回する必要があり、構造上非常に脆い。機動性から見ても、戦力構成から見ても騎兵に比べて大きく劣る。とは言うものの、そもそも騎兵が存在しなかった時代においては、戦車の機動性は他に代えるものがなかった。高速で移動しながらでも弓矢による射撃を行えることや、加速をつけたポールウェポンによる破壊力は驚異的であった。騎兵が戦場で盛んに現れる時代になっても、馬上で扱うには大きすぎる長弓や弩砲で射撃を行ったり、戦車の前面や側面に槍や剣、鎌を取り付けて敵の重装歩兵の隊列に突撃し隊列を分断、混乱させるような運用もされた。西方世界では重装歩兵時代をはさみ、いつ騎兵と入れ替わったかは定かではない<が、>・・・古代ローマでは<もっぱら>戦車競走<に用いられ>、・・・帝国の各地に競馬場が作られた。・・・<支那>では春秋時代までは戦車が主流であったが、都市国家から領域国家の時代に移行する戦国時代ころより歩兵戦が主流となった。趙の武霊王は紀元前307年に胡服騎射を取り入れ、これ以降は騎兵の時代となる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88
 「ポールウェポン(pole weapon)あるいはポールアーム(polearm)は、近接戦闘において使われる、木や金属などで出来た竿状の長い柄を持ち、その先端に石や鉄で出来た攻撃用の部品を備えた武器の総称。漢文では長兵、・・・日本では長柄(ながえ、ちょうへい)武具、または長柄武器、棹状武器と称する。その歴史は・・・石器時代の狩猟道具にまでさかのぼることが出来る。・・・現代では、ポールウェポンはほとんど火器に取って代わられた。しかし、銃剣を装着した小銃・ライフルはポールウェポンの一種だと見なすことができる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%9D%E3%83%B3

 馬達はBC4,000年前後にウクライナのステップ群において飼育化されたが、諸車(cart)を引っ張ることができるだけ大きなものを繁殖させることを馬飼達ができるようになったのはBC約2,200年になってからだった。
 BC1,900年までには、この種の諸車はカフカス山脈を横切り南西アジアに入り、BC1700年より前に、複合/反射弓(composite/reflex bow)<(注25)>群で武装した弓兵達を載せた、より軽快な諸ヴァージョンが諸戦場で用いられるようになった。

 (注25)弓は、「1本の木や竹で作った丸木弓と、木と竹または動物の腱などを張り合わせた複合弓に大別される。・・・丸木弓よりはるかに強力な、弓幹をシラカンバの皮や漆で固めた良質な複合弓は、アッシリア、古代エジプト、古代中国、北東アジア、中央アジアに多く見られた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93_(%E6%AD%A6%E5%99%A8)

 この諸車の機動性は、戦闘に革命を起こし、BC1,500年までには、近東の諸戦闘において決定的な武器となった。
 BC1274年のカデシュ(Kadesh)における戦闘<(注26)>では、エジプトとヒッタイトが、それぞれ約3,500の戦車を繰り出した。

 (注26)「紀元前1274年にシリアのオロンテス川<[アラビア語でアシ川]>一帯で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦いである。史上初の公式な軍事記録に残された戦いであり、成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いであるともいわれている。
 エジプトのラムセス2世は・・・シリア地方北部に侵攻し、ヒッタイト<(下参照)>の属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。ヒッタイト王ムワタリはすぐにアムル奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。・・・戦闘が膠着状態に入り、ムワタリは停戦を申し入れた。ラムセス2世はこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。・・・アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。・・・
 粘土板に刻まれたエジプト・ヒッタイト平和条約。平和条約を作成し公表するということは当時画期的出来事であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E5%B7%9D ([]内)
 Hittites。BC1680年頃〜BC1190年頃。「インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88

 この頃までには、諸戦車が支那での戦争で使われ始め、その後の数世紀の間に、諸戦車は、インドにも到達した。
 (新世界では、馬達がおらず、従って、むろん、諸戦車も存在しなかった。)

(続く)