太田述正コラム#6891(2014.4.22)
<フランス革命再考(その8)>(2014.8.7公開)

 (6)イスラエル批判

 「私がこの本の問題点だと思うことの要点は、イスラエルが、啓蒙主義思想中の最善のものが、現代における社会民主主義的政綱(platform)と瓜二つである、ということを見出し続けているところにある。
 <イスラエルが、急進的啓蒙主義者達の>政見(politics)を描写するまさにその言葉群は、「諸権利」ではなく「基本的諸人権」だの、相続税と「社会の最弱者」への財政支援への焦点絞り・・これらは、ポリー・トインビー(Polly Toynbee)<(コラム#3655)(注21)の言>からそのまま取ってきたかのように聞こえる・・だのと、驚くほど現代的だ。

 (注21)1946年〜。英国のジャーナリスト、著述家。歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold J. Toynbee)の孫娘。統一試験の成績は悪かったが奨学金を得てオックスフォード大に入学するも、18か月後に自主退学。ガーディアン、BBC、インディペンデントの記者を経てガーディアンにコラムニストとして復帰。筋金入りの社会民主主義者にして無神論者・・彼女いわく、「イスラム教、キリスト教、ユダヤ教は、全て、自分自身を女性の体への嫌悪でもって定義している」・・。死別した最初の夫との間に3人の子供がいる。その後再婚。(夫はどちらもガーディアン関係者。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Polly_Toynbee
 
 私は、イスラエルが18世紀の諸史料について驚異的な知識を持っているのは疑いないものの、彼が、21世紀の諸政見特有の中身と完璧なまでに一致する史料ばかりを見出し続けているのではないか、と勘繰っている。」(F)

 「イスラエルがどうして怒っているのかは実によく分かる。
 彼自身は世俗主義の旗手を自認しているにもかかわらず、現実には、彼は、今日における最もキリスト教的な歴史家達の一人である、と私が示唆しているからだ。
 結局のところ、イスラエル<が描くところ>の急進的啓蒙主義の歴史の中には、キリスト教的な空中楼閣(imaginary)の基本的事項(fundamentals)・・薄暗がり(obscurity)が支配している所への最終場面における光の照射、人心をかき乱す諸見解のために同時代人達に拒絶される救世主、その救世主の名前で政治当局と闘う俗民的(ragtag)使徒達、初期における殉教者達<の続出>と最終場面における<信徒達の>諸勝利、<こういった考え方の>地理的普及、絶対的真実<に向けて>の進歩という目的論的脚本(script)、そして、山羊群からのヒツジの容赦なき分離、が全てそこに存在しているのだ。
 驚愕すべきは、<キリスト教的な>知識と解放をこれほども目立つ(prominent)形で主題群<として抱懐してい>る人物であるというのに、イスラエルは、自分の試み(plot)の<背景にある>キリスト教的鋳型について、思案することに完全に失敗していることだ。
 彼は、彼の叙述の中で、急進的啓蒙主義が、フランス革命の初期の諸年において、相対的にしか、かつ、短期間しか、勝利を収めることができなかったことを嘆く。
 しかし、<イスラエルらのような>教会史家にとっては、たとえ<イスラエル>当人<のように>世俗主義の教会史家であったとしても、当初の<「神」ないし「救世主」の>約束が成就することは、常に現在と未来における必然(reserve)なのだ。
 教会史を書く眼目は、イスラエルが、自分のプロジェクトがそうしてくれることを明確に欲しているように、過去をより込み入ったものに(complicate)することではなく、それが新しい諸勝利に向けてどのように鼓吹するかを示すことなのだ。
 イスラエルは、自分によるベネディクト・スピノザの非凡な才(genius)についての描写(portrait)は、啓蒙主義の無原罪の御宿り(immaculate conception)<(注22)>を意味する(amount to)わけではない、と返答する。

 (注22)「聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れととがを存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義。・・・正教会、復古カトリック教会、およびプロテスタント諸教派は、無原罪の御宿りの教義を否定する。・・・
 第1バチカン公会議における教皇不可謬説に反対して分裂した復古カトリック教会は、8世紀以前のものに認める聖伝を限定する。そのため、聖母マリアの無原罪懐胎も認めない。のみならず、ローマ教会の伝承、教皇首位、教皇不可謬、司祭の独身制を認めず、免償、聖人崇敬、巡礼も否定しているほか、聖日の聖体拝領、断食を義務付けない。聖書を読むことを推奨し、典礼も各国語によるものを認めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%8E%9F%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AE%BF%E3%82%8A

 とはいえ、イスラエルのスピノザに関する見解の意義(significance)は、その見解自身が語っているように、(当局(authority)、伝統、その他による)1000年間にわたる偽り(falsehood)の統治の後、<人々を>解放させてくれる真実が最終的にその姿を現す、という点に存する。
 とりわけ、一人の<イスラエルという>歴史学者は、これら<のスピノザの見解の一部>を、スピノザのためによかれと<考えて>頭から否定したり、スピノザの追随者達にこれら<の見解>を水で薄め(reduce)<た形で受け継がせ>たりはするものの、<上出>のような類の<黙示録的な>出来事<が生起するであろうこと>を、他の哲学者達を列挙<し、彼らの見解を引用>することによって説明しようとするどころか、文脈によって解釈可能な形で提示(contextualize)することさえ怠るのだ。
 <あるいはまた、>イスラエルは、スピノザが「絶対的」真実に向けての最終的な関門の突破を宣明したと見ることを好むものの、どのように、かつ、何故、<スピノザ的なものの出現>のようなことが起こったのかを歴史的に説明しようとしてはこなかったのだ。
 <そもそも、このような、スピノザ的なものの出現>は、キリスト教文化においてのみ、(ないし、その中にユダヤ人がいたことによって、)起こりえたのだろうか、また、何故、それはキリスト教文化の中で(、キリスト教以外の文化は、これまで、<スピノザ的なもの>の影響を受けることができない、と<キリスト教文化圏の人々によって>日常的に譴責されてきたところだが、)起きたのだろうか。
 私は、これらの問いに対する答えを持ち合わせていないが、イスラエルに至っては、これらの問いを切り出すことすらしないのだ。」(D)

 「イスラエルは、管理不可能なほど複雑な時代を、良いもんと悪いもんの漫画ゲームへと単純化する危険を冒しているのではないか。」(E)

(続く)