太田述正コラム#6867(2014.4.10)
<独露の特殊関係>(2014.7.26公開)

1 始めに

 表記に関し、シュピーゲル誌の電子版に興味深い記事が載っていた
http://www.spiegel.de/international/europe/conflict-with-russia-raises-buried-questions-of-german-identity-a-963014.html
(4月10日アクセス)ので、その概要をご紹介し、私のコメントを付そうと思い立ちました。

2 独露の特殊関係

 「・・・ドイツ人とロシア人との間の絆については、明白な諸説明が可能だ。
 経済的諸利害、両国の政治スペクトラムの左翼と右翼両方における深く根差した反米主義。
 しかし、これらは、単に表見的な解答群に過ぎない。
 ちょっとでも深く掘り下げれば、あなたは、他の二つの説明・・ロマンティシズムと戦争・・を見出す。
 戦争による説明は、ドイツの罪(guilt)と分かちがたく結ばれている。
 ロシア人達に対して身の毛のよだつ諸罪を犯した国の国民として、<ドイツ人達>は、ロシアの諸人権侵害に対処するにあたってさえ、しばしば、格別に寛大である必要がある、と感じる。
 その結果、ドイツ人の多くは、政府が、ウクライナ危機にあたって、ロシアに対する批判を加減し、穏健な立場をとるべきだと感じる。
 結局のところ、ソ連に侵攻し、その人種主義的絶滅戦争で2,500万もの人々を殺したのはドイツだったではないか、と。・・・
 それは、ドイツのナチの過去を償う(compensate)一つのやり方だ、と。・・・
 ドイツ人達が、「病理的学習過程」を採用してきた、と懸念されるわけだ。・・・
 この罪の問題がドイツ人達とロシア人達の繋がりを生み出してきたが、ロシア人達側は、戦後、かなり速くこの論点を蒸発させている。
 フランス人達、スカンディナヴィア人達、及びオランダ人達とは違って、ロシア人達には、ドイツによる占領中に犯された諸罪について、<ドイツ人達を>名指しして辱める傾向が見られない。・・・
 <それはそれとして、>この戦争は、ドイツ人達とロシア人達双方によって共有された経験である<ことは間違いない>。
 ・・・平和に比べて、紛争は、より強いコミュニティ動態(dynamic)を創り出すし、また、この戦争の結果、ドイツ人達は、決して再びロシアを攻撃してはならない、というもう一つの事柄を学んだ。
 それに、もちろん、ドイツ人達にはロシアに関するロマンティックな諸観念がある<ことを忘れてはならない>。
 ロシアは、ドイツ人達によって、常に理想視されてきたのだ。・・・
 東方は、ドイツ人達にとって、希求される場所なのだ。・・・
 宏大で、一見したところ無限のロシアの空間は、自然により近く、文明の諸制約から解放されたところの、より素朴(simple)な生活に対するドイツ的強迫観念の対象(subject)で常にあり続けた。
 1945年以降に、東欧から追放され、西方へと動くことを強いられた、数百万人のドイツ人達は、かかる感覚を醸成した。
 彼らにとっては、それは、手つかずの自然と自分達の失われた故郷を代表していたのだ。
 ドイツのロシアへの希求のもう一つの面(flipside)は、その、自身を欧米とは区別しようとする欲求だ。
 欧米の、一般にそうであると見なされているところの、皮相性に対する根本的反対がロシア的精神(soul)の一部であるように<ドイツ人達には>見えるのだ。
 すなわち、欧米の人間の、感知される忙しさと貪欲に金を貯める諸姿は、東方の想像上の(supposed)感情と精神性の深さとは対照的である、とされる。
 ・・・何かがロマンティシズム化される場合、そこには、常に反民主主義的傾向(streak)が存在する<と言えよう>。・・・
 それは、紛争に比べ調和に、そして、対峙に比べ統一(unity)に、特権を与える。
 この反欧米的思考の伝統は、ドイツにおいて長い伝統がある。
 トーマス・マン(Thomas Mann)<(注1)>は、第一次世界大戦中に執筆された『非政治的人間の考察(Reflections of an Unpolitical Man)』の中で、その過程でドストエフスキーを引用さえして、ドイツを欧米から強く区別しようとした。

 (注1)1875〜1955年。「1929年にノーベル文学賞を受賞した。・・・1933年にナチスが政権を握ると亡命し、スイスや<米>国で生活し・・・終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごした・・・予備高等学校時代には6年目に落第、高等学校でも2年落第を受けて<おり、>・・・兵役を1年で終えることができる志願兵資格を得られるだけの学級を終えたため高等学校を中退<し、大学には行っていない。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3

 「ドイツ人であることは、文化、精神、自由、芸術(art)を意味するのであって、文明、社会、投票権、そして文学(literature)、を意味しない」とマンは記した。
 マンは、後に彼の諸見解を修正したが、この論考は、ドイツの位置を東方と欧米の間に定めようとしている者達にとっての文書であり続けている。

→文学が非ドイツ的とは面白いですね。
 当時、ドイツ文学やフランス文学等が束になってかかっても、イギリス文学には遜色がある、とマンが考えていた可能性が大です。(太田)

 当時のドイツの知識人達の間での、ヨハン・プレンゲ(Johann Plenge)<(注2)>によって情宣されたところの、1789年にフランス革命の最中に採択された、自由・平等・博愛、に対するに、義務、規律、法と秩序・・後に国家社会主義<(=ナチズム)>に影響を与える・・という「ドイツ的諸価値」を強調する、「1914年の諸観念(Ideas)」の二つの間の闘争<がドイツで復活している、ということ>を・・・指摘する<者がいる。>・・・

 (注2)1874〜1963年。ドイツの社会学者。ミュンスター大政治経済学教授。マルクス研究者でヘーゲルに注目しつつ、次第にナショナリストになり、ナチスの最も重要な先駆者と目されている。本文中の上掲の彼の考え方は、『1789年と1914年(1789 and 1914)』(1916年)の中に出てくる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Plenge

 ロシアに対する希求は、「我々がそう常に考えていたけれど、もはや考えてはいけないこととなったもの」の象徴でもある。・・・
 ドイツは、まさに、「欧米への長い旅」の終末に到達しつつあった。

→終末とは、かつてのドイツへの回帰を意味します。(太田)

 ところが、ウクライナ危機と東西紛争の再来の脅威によって、この到達点はまだ最終到達点ではないように見え始めている。・・・
 最近の・・・世論調査が示したのは、全ドイツ人の殆んど半数が、この国がロシアと欧米の間を立ち位置として欲しいと思っていることだ。・・・
 <いずれにせよ、>古の反米的諸感情(sentiments)が、米NSAの諜報醜聞によって拍車をかけられ、ロシアとの紛争のエスカレーションへの恐怖と並行して、一つの役割を大いに演じている可能性があるのだ。・・・」

3 終わりに

 ロシア「文明」は欧州文明の外延であり、より純化された欧州文明である、とかねてから私が申し上げてきたことを思い起こしてください。
 ドイツやフランスを始めとする欧州文明の人々は、心底では、「義務、規律、法と秩序」が大好きで、要するに全体主義的志向があることが、この記事から改めてご理解いただけたことと思いますが、欧州文明の人々は、それと同時に、個人主義/自由主義文明たるアングロサクソン文明にも強い憧れと劣等感を抱き、その継受努力を続けてきました。
 ロシア人達も基本的に同じなのですが、(欧州文明プロパーの人々とは違って、自分達は絶対にアングロサクソン文明を継受できないと諦めているだけに、)表見的には、全体主義で何が悪い、と常に開き直って、現在に至っているわけです。
 そんなロシア人達の(絶望故にこその)思い切りの良さに、ドイツ人達が、いや欧州文明の人々が、惹かれるのはむべなるかな、です。
 イギリス人は、そういう、ロシア人達や欧州文明の人々の魂胆を完全に見透かし、軽蔑し切っているのです。
 ロシア人達はもとより、欧州文明の人々だって、人間主義文明化を目指せばいいのですが、彼らの有色人種/非キリスト教徒差別意識が、超東方における、日本(人間主義)文明の存在すら、直視するのを妨げているのですから、何をかいわんやです。