太田述正コラム#6849(2014.4.1)
<網野史観と第一次弥生モード(その17)>(2014.7.17公開)

 その前に、そもそも、どうして絹(絹布)が、日本で、「価値の尺度」、ひいては税の「支払」に関わるものとして用いられるようになったのでしょうか。

 「絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まっていた・・・
 一方、他の地域では絹の製法が分からず、非常に古い時代から絹は中国から陸路でも海路でもインド、ペルシア方面に輸出されていた。これがシルクロード(絹の道)の始まりである。・・・
 ローマでは同量の金と同じだけの価値があるとされた・・・
 <ローマ等とは違って、>日本にはすでに弥生時代に絹の製法は伝わって・・・いたが、品質は中国絹にはるかに及ば<なかった。>・・・
 戦乱のために<絹の>生産・・・が衰退した・・・室町時代前期には21ヶ国でしか生産され<なくなっていた。>・・・
 <絹の>欠点<は以下の通り。>
家庭での洗濯が困難(水に弱いため)
汗によりしみになりやすい
変色しやすい
虫に食われやすい
日光で黄変する
燃えやすい」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9

 上掲を踏まえれば、絹は、弥生人が米とともに縄文人にもたらした産品であるところ、縄文人として、弥生人や神々(神社ネットワーク!)に、収穫したものの一部を初穂として返礼してしかるべき典型的なものの一つであったと考えられ、かつまた、絹が、米とは違って、(日本では、ローマ等とは異なり、自ら生産できたとはいえ、)貴重なものであって、それでいて、日本の大部分の地域で、第一次縄文モードの時代までには生産され、入手できるものとなっていたこと、がその理由であったことが想像できます。
 で、このことから、宋銭が絹に取って代わった理由が、以下のようなものであったこともまた想像できる、というものです。
 まず、拡大弥生時代に支那から導入されていた仏教が、第一次縄文時代末期に日本の治安が乱れたために仏教の個人にとっての宗教化が進展していたという背景の下、(かつ、たまたま、当時、日本の銅生産が減少していた(コラム#6832)わけですが、)仏像を造るために、宋銭が弥生人の出身地の支那から輸入されたところ、宋銭は(希少であっただけでなく)貴いものであるという認識が確立し、また、このような事情から、日本全域に普及するに至ったと考えられること。
 次に、その一方で、絹の上掲のような欠点が宋銭には全く存在しなかったこと。
 つまり、銅は、「価値の尺度」及び「(税の)支払い」に好適であったことに加えて、絹とは違って、「価値の保蔵」にもまた好適であった、ということです。
 ただし、「交換の媒介」としては、掛け売りが基本の日本では、宋銭も、絹ほど敬遠はされなかったでしょうが、用いられることは多くなかった、と私は考えるわけです。
 そうだとすれば、(14世紀までには、日本国内での銅生産も回復していたと思われにもかかわらず、)鎌倉幕府はもとより、室町幕府も、銅銭を国産し、自ら発行することを考えなかったわけが説明できます。
 「交換の媒介」には余り使われない以上、「価値の尺度」や「支払い」・・税の支払いに用いてもよいというだけのこと・・や(一部富者だけしかできなかったであろうところの)「価値の保蔵」だけでは、銅銭への需要はそれほど大きなものにはならなかったであろう上に、支那からの舶来品でない国産の銅銭では、貴さも今一つだったでしょうからね。

 (このあたり、相当目新しいことを述べているので、論理において、或は史実に照らし、ご批判等がある方は、どしどしお寄せ下さい。)

(続く)