太田述正コラム#6843(2014.3.29)
<網野史観と第一次弥生モード(その14)>(2014.7.14公開)

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<脚注:人間関係も自由に譲渡できるという観念>

 「一説には、<日本において、>すでに縄文時代において奴隷制が存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国の女王・卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、魏王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。
 日本の律令制度では、人口のおよそ5%弱が五色の賤<(注22)>とされ、・・・官有または私有の財産とされた。そのうち、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)<(注23)>は売買の対象とされた。この2つの奴婢身分は、公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大に伴い、平安時代前期から中期にかけて事実上消滅していった。907年の延喜格で正式に廃止されたとされる。五色の賎は、良民との結婚などに制限があったが、<実際には口分田の班給は行われていなかったと思われる(太田)が、>良民と同等または3分の1の口分田が班給されており、古代中国などと同じく、現代人が想像する奴隷とはやや異なる存在であった。

 (注22)「律令制<下>、中国のそれに倣って、国民を良民と賤民とに大別する良賤制を採用した。・・・賤民は衣服により色分けされていたので五色の賤と呼ばれる。このうち陵戸は・・・結婚以外は良民と同等であった。官戸は犯罪行為の罰として賤民に落とされた身分で口分田等は良民と同等、76歳になれば良民に復帰できた。官奴婢には古来からのものと犯罪によって落とされた二種類があり、それぞれ60歳・76歳で良民に復帰できた。官奴婢の場合戸は形成されない。私奴婢は良民の3分の一の口分田が班給され売買・相続された。家人は待遇としては私奴婢と同等であるが売買は禁止され仕事に制限があった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/五色の賤
 (注23)「陵戸は天皇や皇族の陵墓の守衛、官戸と官奴婢は官田の耕作、家人と私奴婢は私家の雑用に従事した。・・・官奴婢や私奴婢は、売買や質入の対象となるなど、非人道的な扱いを受けた。だが、一定の年齢に達すれば上の階層に上がる事ができる制度などもあり、・・・江戸時代の被差別民の身分ほど固定されたものではなかった。一方、奴婢は自らの公認された自立的な共同体を持たず、個人別に良民や朝廷の所有物とされるなど、穢多頭に統率されるなどの形で一定の権利保障の基盤になる共同体組織の保持を保証された江戸時代の被差別民と比べると、権利保障の基盤は脆弱であったとも言える。」(上掲)

→縄文時代には奴隷は存在しなかったと思われるところ、弥生時代ないし拡大弥生時代には奴隷的なもの・・弥生人が大陸から持ち込んだものが水で薄められた、と考えられる・・が存在した、ということ。(太田)

 平安時代後期に<は、>・・・社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「勾引」・・・や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王(山椒大夫)』の物語<(注24)>は、この時代を舞台としている。このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。また、奴隷が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。

 (注24)「中世の芸能であった説経節の「五説経」と呼ばれた有名な演目の一つ・・・<舞台は>平安時代の末期」
http://ja.wikipedia.org/wiki/山椒大夫
 「説経節・・・は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/説経節

 自力救済の時代である<鎌倉〜室町時代の>日本では、人身売買は民衆にとって餓死を免れるセーフティーネットとしての面も持つ行為であった。身売りすることで近い将来に餓死する事だけは避けえたからである。・・・鎌倉幕府は1239年になって人身売買の禁止を命じるとともに、例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴隷の発生は黙認する態度を示した・・・。・・・鎌倉幕府や朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴隷の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で奴隷狩りを行った。惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴隷を利用した。
 いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」(乱妨取り)と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は、主にポルトガル商人を通して東南アジアなど世界中に輸出された。関白の豊臣秀吉は、バテレン追放令でこれを禁じた。・・・
 江戸時代に勾引は死罪とされ、奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/奴隷

→第一次弥生時代には、日本史上、この時代においてのみ、奴隷が、ただし、限界事例として存在した、ということ。(太田)

⇒総じて、日本には、古代支那、古代ギリシャ・ローマ、中世・近世・近代欧州(一時期はイギリスも)のような、典型的な奴隷制はなかった、と言えそうだ。(太田)
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 (3)市場経済と並列する贈与経済の成立

 「『贈与の歴史学 ー 儀礼と経済の間 ー』で<、櫻井氏>は、一五世紀の幕府と諸大名、宮廷、寺社等との間に行われたいわば「なさねばならない」義務としてあった贈与の原理とその歴史的意義を明晰に述べておられます。すなわち神仏への捧げ物に由来する贈与は、鎌倉期から富者が次第に貧民に肩代わりして請け負うようになる過程で、富の再配分、強いては社会秩序の保持に寄与しましたが、その贈与は室町時代にいたっていよいよ社会行為として重要性を増し、国家財政そのものを支えるほど緻密なシステムにまで伸展します。市場経済と並行する「贈与経済」、商人の手を経ないまま贈答品だけが社会を循環するという構造を鮮明に描き出すことによって、貴族の心性はもちろん、統治機構そのものの性質を突き止めることに成功しておられると言えます。本書では、日本史を対象とする歴史学の枠を超え、たとえば贈与研究の原点であるフランスの社会学者マルセル・モース<(注25)>の『贈与論』の概念枠を踏まえつつ、モース以降の贈与理論を相対化させる強力なケース・スタディーとして日本の室町時代を提示しています。」
http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/research/faculty/newlyappointed/ics/f002249.html
 (注25)Marcel Mauss。1872〜1950年。ボルドー大卒、高等研究実習院でインド宗教史を専攻。「フランスの社会学者、文化人類学者。・・・エミール・デュルケームの甥にあたる。デュルケームを踏襲し、「原始的な民族」とされる人々の宗教社会学、知識社会学の研究を行った。・・・
 代表著作の『贈与論』はポトラッチ、クラなどの交換体系の分析を通じて、宗教,法,道徳,経済の諸領域に還元できない「全体的社会的事実」の概念を打ち出し、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学に大きな影響を与えた。
 また、「身体技法」論は、今日なお、社会学的身体論の基本文献となっている。マナなどの概念を通して呪術についても論じた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/マルセル・モース

 上掲を読んだおかげで、私は、それまで殆んど無視していたところの、(恐らくは、網野に由来するのであろう、)大澤、鬼頭両氏も言及していた、日本の「贈与」システムについて、ある仮説に到達するに至ったのです。
 そして、この仮説でもって、第一次弥生モードにおける「「市場経済社会」の「急速<な>解体」に至った理由」についても、すんなり説明できそうな気がしているのです。

(続く)