太田述正コラム#6841(2014.3.28)
<網野史観と第一次弥生モード(その13)>(2014.7.13公開)

5 つけたしのつけたし

 (1)序

 前回でこのシリーズを終わらせる予定だったのですが、3日ほど前に櫻井英治の存在を知り、急遽、つけたしのつけたしを書くことにしました。
 櫻井は、 1997年1月に東大博士(文学)となり、東大総合文化研究科准教授を経て、東大大学院・人文科学研究科教授、という人物です。
櫻井については、「氏の研究で注目すべき点は、日本史をいわば自己完結的な地域研究として捉えるスタンスから、東アジア世界のなかで日本の国家制度がいかに成り立ち、変容したかを周辺地域との地政学的関連や、中世ヨーロッパとの比較史的検討を試みることなどを通して視野を拡大しようとする姿勢・・・です。・・・
 早く単著『室町人の精神』において対外貿易、応永の外寇など精緻な考察において世界史への志向が認められます。」
http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/research/faculty/newlyappointed/ics/f002249.html
というのですから、網野らの比較史的アプローチの不十分さに飽き足らない思いをしていた私にとっては、この点だけでも櫻井は注目させられました。
 しかも、櫻井らが唱えるところの、(私の言う第一次弥生モードにおける)代銭納制の成立、及び、櫻井が唱えるところの、(同じく私の言う第一次弥生モードにおける)市場経済と並列する贈与経済の成立、は、実証研究を踏まえたものらしいだけに、それぞれ、消極的に言えば私の史観に修正を迫りうる、積極的に言えば私の史観を一層発展させうる、衝撃的なものである、と私は受け止めた次第です。
 
 (2)代銭納制の成立

 代銭納制の成立というのは、ここ10数年、日本の歴史の本を読んでいなかった私にとっては、完全に目新しい話でした。
 少し長いですが、櫻井の本のうちの1冊の内容を紹介した下掲に、目をお通しください。

 「櫻井英治<は、その>「贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書)」<(2011年)>で、中世日本における市場経済の浸透について簡潔に説明<し>ている。
 平安後期の年貢について、『中世の年貢には米だけでなく、塩・鮭(さけ)・鮑(あわび)などの水産物や榑(くれ)・檜皮(ひわだ)などの林産物、鉄・金などの鉱産物、絹・麻布などの繊維製品、筵(むしろ)・合子(ごうず)などの工芸品等々、いわゆる非水田生産物が多数含まれて』(P108)おり、それらは農業の合間に生産できない物なども多数含まれていた。そしてそれらは水田に対して賦課されており、農民たちによる一定の商品交換に基づいて集められることを前提とした仕組みであった。またその年貢を徴収する貴族や武士などの荘園領主たちもその徴収された年貢は売却・換金されるか、『米や絹、麻布などがそれ自体貨幣として物資の購入に充てられていた』(P108)という。
 一二七〇年前後を境に、その年貢がすべて銭で収める形態に変化する。これを年貢の代銭納制と呼ぶ。まず絹と麻布が一二二〇年代に銭で納められはじめ、十三世紀末までに米年貢も代銭納制が浸透した。これによって生産物は現地で売却・換金された上で得られた銭が年貢として中央に送られることになる。『つまり年貢の代銭納制は日本列島に膨大な商品の流れを発生させ、その結果、代銭納制以後の日本列島では本格的な市場経済が展開したと考えられるのである』(P110)。
 この中世における年貢の代銭納制への移行の背景としては中国王朝の宋から元への交替が大きく影響していたという。
 『日本の中世国家は、朝廷にせよ、幕府にせよ、貨幣をみずから鋳造することはなく、周知のように、その供給をほとんど中国の銅銭に依存していた。そしてそれをささえたのが、中国歴代王朝のなかでもとくに大量の銅銭を鋳造したことで知られる北宋の貨幣政策だった。ところが一二七六年に元=モンゴルが事実上南宋を滅ぼして中国を統一すると、翌年、元は紙幣専用政策をとり、紙幣の流通を円滑にするために銅銭の使用を禁止した。その結果、中国国内で使い道を失った銅銭が海外に大量流出し、それが日本においては年貢の代銭納制を一気に普及させる結果をもたらした(後略)』(P114)
 十三世紀後半、ヴェトナムやジャワなど東アジア全域で中国銭使用の拡大が起きており、その影響を日本も受けることで、市場経済社会の浸透がもたらされたということのようだ。
 また、代銭納制の浸透による市場経済の展開は信用経済の発達と商品作物の生産促進という二つの効果ももたらした。割符(さいふ)と呼ばれた手形は畿内の問屋が振出し、地方での買い付けに用いられ、地方の荘園の代官や百姓を介して京都の荘園領主の元に渡り、問屋に持ち込まれて換金された。割符による年貢納入が行われた地域もあったという。<(注19)>
 また、最終的に銭納すれば良い訳なので、換金性が高い、その土地土地に応じた多様な生産物が作られ始めた。十四世紀ごろからそれまで資料に登場してこなかった新しい特産物が次々と登場してくるのだという。
 このような中世の市場経済社会化<に伴い。>・・・日本<は、そ>歴史上まれにみる信用経済発達のピークを迎えることになる。借用証書が流通し、債権そのものが債務者の知らないうちに自由に流通する。経済関係だけでなく人間関係も文書化することで自由に譲渡できるという観念が発達し、地位や主従関係、顧客などにいたるまで希薄化、ときに売買や譲渡が行われた。
 中世的な信用の観念を前提とした市場経済社会は十四世紀をピークにして十五世紀から十六世紀にかけて急速に解体する。行き過ぎた市場経済化の反動で、流動化した社会から、情誼や関係性を重視する固定化した社会へと反転<し(注20)>、戦乱の時代を経て江戸幕府が誕生することになる。江戸幕府では年貢の米納が復活。再び市場経済の成熟と信用経済の発展が見られることになるのは江戸中期<(注21)>から幕末にかけての時期まで待たねばならない。」
http://www.douban.com/group/topic/29941005/

 (注19)執筆時期は不明だが、別稿
http://dornsife.usc.edu/ppjs/reassessing-shoen-sakurai-eiji/
で、櫻井は、「注目されるのは、割符には1個10貫文の定額手形が多かったことである。それらは1つ、2つと個数で数えられ、1つといえば10貫文、2つといえば20貫文をさしたが、定額面であることは、人から人へ転々と譲渡されうる、紙幣的な機能がそこに期待されていたことを示している。10貫文といえば、ほぼ今日の100万円に相当するが、中世後期の経済はそのような高額貨幣としての機能をもった特殊な手形をも発達させたのである。」と記している。
 (注20)櫻井は、上掲の中で、「年貢の代銭納制は、石高制のもとで米納年貢制が復活する16世紀後半まで約300年間にわたって存続したが、それが16世紀後半に終焉を迎えた原因も、貨幣動向に求める見解が有力である。黒田明伸は、1570年前後に、世界史的規模でおこったいくつかの複合的な原因によって中国から日本への銅銭供給が途絶し、それが日本における銭経済の終焉をもたらしたことを明らかにしている・・・。それにともない、年貢の代銭納制も維持が困難になり、しだいに米を中心とする現物納へと回帰していったと考えられる。貢納による物流量はふたたび商品流通量を上まわったとみられ、大坂が全国的な年貢換金市場として浮上してくる一方、各地に簇生した定期市は縮小を余儀なくされたであろう。年貢の代銭納制下で展開した中世的な市場経済社会はこうして終焉を迎えたと考えられる。」と記している。
 (注21)櫻井は、同じく上掲の中で、「米納年貢制が復活する16世紀後半まで約300年間にわたって存続したが、それが16世紀後半に終焉を迎えた」と記している。16世紀後半は江戸中期とは言えないように思うのだが・・。

 これを読んだ時に私が最初に思ったのは、「中世的な信用の観念を前提とした<ところの、銅銭や割符が用いられた>市場経済社会・・・経済関係だけでなく人間関係も文書化することで自由に譲渡できるという観念が発達し、地位や主従関係、顧客などにいたるまで希薄化、ときに売買や譲渡が行われた・・・は十四世紀をピークにして十五世紀から十六世紀にかけて急速に解体する。」というくだりは、まさに私の提唱する縄文モード/弥生モード日本史観における、第一次弥生モードの主要属性の一つとして使えるな、ということでした。
 しかし、その後まもなく、第一に、それでは、私がこのシリーズで初めて打ち出したところの、日本社会には、掛け売りを原則とする貨幣需要の小さい社会、という、モードの変遷を超越した特性がみられる、という仮説が、第一次弥生モードにはあてはまらないことになってしまうが、本当にそうなのだろうか、第二に、「市場経済社会」の「急速<な>解体」に至った理由についての櫻井の説明が、注20を踏まえても、説得力が余りないのではないか、という二つの疑問が私の心中に生じたのです。

(続く)