太田述正コラム#6835(2014.3.25)
<網野史観と第一次弥生モード(その10)>(2014.7.10公開)

 さて、随分、網野や彼につながる日本史学者達に辛口のことを書いてきましたが、長きにわたって日本で通説的地位にあったマルクス主義史観に代わる史観を日本史に関して打ち出そうとした彼らの試みは、大いに評価されなければならないでしょう。
 後で、「つけたし」の中で触れますが、網野の影響を受けつつ、網野のエピゴーネンの域を脱した日本史学者達が台頭しつつあることが、網野の功績の大きさを物語っています。
 問題は、網野の史観に説得力があるかどうかです。
 説得力があるかどうかは、より少ない補助線で、より多くのことが説明できるかどうかで決まる、というのが私の見解です。
 この見解に照らせば、自分で言うのもおこがましいけれど、私の史観の方が説得力がありそうです。
 (もとより、皆さんの判断は自由です。
 逆だと思った方は、ぜひ、具体的にその理由をお聞かせください。)
 網野の史観がどうして説得力が乏しいかですが、これまたずうずうしく言わせてもらえば、少なくとも三つの理由をあげることができるのではないでしょうか。
 一つには、世界史的観点ないし比較史的観点、が十分ではないことです。
 より端的に申し上げれば、網野は、支那史、欧州史、イギリス史等の知識が不十分なのではないか、ということです。
 二つには、史学に隣接する学問諸分野への目配りが十分ではないことです。
 これもより端的に申し上げれば、網野は、人類学/考古学のほか、とりわけ、私の言うところの人間科学の知識が不十分なのではないか、ということです。
 以上については、私は、網野の受けた日本史教育や網野を取り巻く日本の日本史学界に問題がある、と推察しています。
 三つには、軍事/危機管理的視点が欠如していることです。
 これは、日本史学界だけでなく、戦後日本そのもの宿弊と言うべきでしょう。
 この最後の点については、本シリーズを読んでこられた方には、改めて説明を要しないでしょうが、念のために、具体例をもう一つあげておきます。
 
 「律令国家(最初の農本主義国家)は、強い「陸への意志」「土地への執着」に貫かれていた。その端的な現れは、この国家が、陸上の道を中心とした交通体系にこだわったことである。それまでの長距離移動は、海上交通や河川の交通が中心だった。しかし、律令国家は、これをまったく無視して、都へと向かう、できるだけ直線的な道を整え、この道にそって駅屋(うまや)を設けた。租税は、この道で運ばれてくる、という想定である。」

 網野/大澤は、ここでも「陸への意志」だの「土地への執着」だの訳の分からないことを言っていますが、道路も支那模倣の一環として、拡大弥生時代の日本政府が、7世紀以降、駅伝制とともに整備したもの(注11)であり、儒教、道教、貨幣等同様、日本では必要性に乏しいものであったが故に、儒教、道教、貨幣等と同様、第一次縄文モードの間に廃れてしまった(注12)、というだけのことでしょう。

 (注11)「こうした・・・道路の出現の背景には、7世紀初頭に派遣された遣隋使により、隋の広大な直線道路に関する情報がもたらされた影響があるのだろうと考えられている。・・・
 駅路は、中央と地方との情報連絡を目的とした路線で、各地方拠点を最短経路で直線的に結んでおり、約16kmごとに駅家が置かれていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E9%81%93%E8%B7%AF
 「山陽道の場合、原則30里(・・・約16キロ)ごとに駅家(うまや)を設けていた。道幅は約6メートルから9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されて<いた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%99%BD%E9%81%93
 (注12)「地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、・・・駅路は廃絶していき、存続したとしても 6m 幅に狭められることが多かった(広い幅員の道路を維持管理することには大きな負担が伴うからである)。・・・10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E9%81%93%E8%B7%AF 前掲

 どうして必要性に乏しかったかと言えば、当時の支那の幹線道路は、下掲のように、主として軍事目的のために整備されたものであったところ、そんな軍事上の必要性は、当時の日本において・・いや、有史以来現在に至る日本において・・、殆んど存在しなかったからです。

 「古代ローマや古代中国、インカ帝国などの古代国家は、中央から地方を強力に支配し、有事には急速な軍事移動を可能とするため、直線的で幅の広い計画道路を版図にはりめぐらせた。・・・
 紀元前221年に中国統一を果たした秦の始皇帝は、中国全域に中央集権的な支配を及ぼしていったが、その一環として全国的な道路網を整備した。中国統一以前は、各国間で車の車輪幅が異なっていたが、始皇帝は車輪幅を統一したため、道路のわだちが一定となり車両の交通が便利となった。始皇帝が整備した道路網は総延長12000キロメートルに及んだが、そのうち約半分が幅員70メートルの大道で、馳道(ちどう)と呼ばれた。また、匈奴対策のため、北方へ約750キロメートルの軍用道路を作り、直道(ちょくどう)と呼ばれた。
 秦がほろんだ後、漢も秦の道路網を継承した。その後、589年に中国を統一した隋は、中央集権的な国家建設を企図し、大規模な道路網整備を行った。隋の煬帝は、幅員140メートルの御道という道路を建設し・・・た。
 その後の唐も、駅伝制を整備するなど、交通制度の充実を図った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E9%81%93%E8%B7%AF

 つまり、日本は平和であり、例外的に兵乱が起こった場合でも、国内どこもが豊かであったので、食糧等の現地調達が可能であったために、都と地方の間で兵站線を確保する必要が基本的になかった、と考えられるのです。
 (日本で馬車が用いられなかった理由として、川や山地が多いことや朝鮮半島に馬車文化がなかったことが挙げられるのが通常です
http://okwave.jp/qa/q2878864.html
が、私は、最大の理由は、やはり、兵站線確保の必要性、すなわち、物資の大量短期間輸送の必要性が小さかったからだ、と見ています。)
 以上は、網野において、軍事的視点のみならず、比較史的観点もまた不十分であることを示すものです。

(続く)