太田述正コラム#6833(2014.3.24)
<網野史観と第一次弥生モード(その9)>(2014.7.9公開)

3 終わりに

 「日本というシステムの特徴は、非常に原初的なメカニズムと文明的なメカニズムとの接合にある。文明的なメカニズムとは、律令制度に源泉をもつ農本主義的な制度や規範である。原初的なメカニズムは、ここで重商主義と呼んできたベクトルに対応している。「重商主義」という語にこだわるとわかりにくいが、これを支えているのは、本来、共同体の外部にいる神々に対する、原初的で未開の畏れである。
 ふしぎなのは、この二つの要素が、互いに相手を完全に否定することなく接続していることではないだろうか。たとえば、文明的な制度が導入されることなく、原初的なメカニズムが存続している社会は、もちろん、至る所にあった。また文明化によって、原初的なメカニズムや心性を否定したシステムもある。しかし、両方が、さして弱まることなく共存し、ときに協力関係に入った社会システムは稀有である。どうして、両者が共存し、接続できたのか。
 これこそ、網野善彦の歴史学が提示した、日本についての謎ではあるまいか。この謎は、網野も解くまでには至らなかった。」

→既に示唆したように、これは、「重商主義」を縄文モード、「農本主義」を弥生モードと読み替えるという前提の下でですが、網野が、農本主義が重商主義に先行していたと誤認したことが原因でしょう。
 つまり、定着的狩猟採集文化を享受していた縄文人によって人間主義社会が、先に日本において成立していたからこそ、稲作文化なる農本主義をひっさげた渡来人たる弥生人集団が、比較的すんなりと日本列島に受け入れられた、ということだと私は考えているわけです。
 爾後、日本は、基層は常に縄文モード、表層は縄文モードと弥生モードが交替する、という歴史を辿ってきている、というのが私の見解です。
 ところが、大澤は、この謎を解くと称して、下掲のような訳の分からないことを口走っています。
 これには、苦笑せざるをえません。(太田)

 「私の考えでは、謎を解く鍵は、日本の独特の文字システムにある。漢字と平仮名と片仮名より成るシステムである。この三つの文字は、一貫した原則に従って、使い分けられてきた。
 漢字が、中国に由来する文明的なメカニズムを代表していることは、明らかである。では、マイナーな方の仮名、つまり片仮名はどうか(漢字仮名まじり文といっても、ほとんどが平仮名まじりなのであって、片仮名まじりはごく少数である)。片仮名には、決まった用法がある。網野によれば、それは、主として、声、とりわけ神仏の声を直接に表現するのに用いられているのだという。・・・
 平仮名は、漢字と片仮名との関係の中にあって、中間的・媒介的である。片仮名は、「書」であることを否認して、声に密着しようとしている文字である。それに対して、漢字は、もちろん、「書の中の書」だ。読みかつ書く文字である平仮名は、両面を備えている。・・・」
 「女性」は、網野の説によれば、古代・中世において、移動する漂泊民や商人、非人と類似のカテゴリーに属していた。たとえば、「歩き巫女」と呼ばれる、移動する遊女の集団があったという。ほとんどの前近代の文化において、女性は、文字の世界から疎外されてきた(たとえば大半の女性は文字を読めなかった)。ところが、日本では、まったく逆に、ごく早い時期から女性が独自の文字をもっていたのだ。これは、きわめて珍しいことだ。
 女性が自分用の文字を用いたというだけではない。『枕草子』『源氏物語』など、女性は、その文字によって、きわめて高度な文学を生み出したのだ。前近代にあって、女性が、これほどまとまって優れた文学を生み出した民族・文化が、ほかにあるだろうか。さらに付け加えておけば、すぐれた女流文学の伝統は、14世紀までのことであり、あの「大転換」以降は、見るべき女流文学がぱたっと消えてしまう。ということは、平仮名を駆使した、女性による文学表現の豊かさは、網野に基づいてここで示してきた社会変動と、どこか深いところで共振しているのである。」

→縄文時代の日本は女性優位の社会であったところ、(平均的女性の言語能力が平均的男性のそれを上回っていることもあり、)文学を中心に、第一次縄文モードの文化を女性がリードしたのはごく自然なことでした。
 その女性が、第一次弥生モードにおいて、文化の最前線から姿を消したこともまた、腑に落ちる、というものです。
 また、昭和に入ると第三次縄文モードとなり、それが深まるとともに、文学において、下掲のように、女性の活躍度が次第に高まってきて、今や女性の活躍度が質量ともに男性を凌駕するに至ったこともまた、当然と言うべきでしょう。

 「芥川賞と直木賞は年に2回、選考会が開かれていますが、昭和10年から前回までの両賞を合わせた受賞者は男女合わせて331人で、このうち女性は24%、80人です。
 昭和時代は女性が17%で、男性が圧倒的に多かったですが、平成からは女性が32%と増えています。
 さらに10年前、平成16年からでは、芥川賞は男性9人、女性12人で女性が上回り、直木賞も男性15人、女性11人で女性が増えてきています。」(2014.1.16現在)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/177944.html

 さて、かねてから私が頭を悩ましているのは、第二次縄文モードの江戸時代に、大活躍した女性文学者が出ていないことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BF%91%E4%B8%96%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2
 私自身、俳人の加賀千代女(1703〜1775年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3
くらいしか思い浮かびません。
 俳諧以外では、当時、それなりの活躍をした女性文学者を強いてあげても、井上通女(つめ)(1660〜1738年。『つめ三日記(江戸日記他2冊)』など)、荒木田麗女(1732〜1806年。『月のゆくへ』、『桐の葉』など)の2名くらいだというのですから、これは、まことにもって摩訶不思議である、と言うべきでしょう。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6270547.html
 この「謎」、ぜひ、いつか「解」きたいものです。(太田)

(続く)