太田述正コラム#6829(2014.3.22)
<網野史観と第一次弥生モード(その7)>(2014.7.7公開)

さて、もう一度話を本筋に戻しましょう。
 
 「重商主義の潮流に対応する宗教も<出てき>た。それ<が>鎌倉新仏教である。たとえば、親鸞は、「悪人正機」(善人すら往生できるならば、悪人が往生できないはずがない)を唱えた。このときの「悪」人は、「悪党」の悪と同じ意味で理解しなくてはならない。
 もっとラディカルなのは、一遍である。親鸞は、悪人と善人の順序を逆転させただけだが、一遍は、善と悪の間の区別そのものをなくしてしまったからである。一遍によれば、絶対者である阿弥陀を信仰するならば(南無阿弥陀仏と唱えるならば)、善人・悪人の別なく、すべてが肯定され、救われる。
 仏教が重商主義の潮流と親和的だということは、律宗や禅宗の僧侶の活動を見ると、はっきり見えてくる。彼らは、勧進上人として、北条氏や天皇の許可を得て、寄付や関所料を、強制的に徴収したのだ。悪党が幕府や天皇と手を組んだのと同じように、律宗や禅宗の僧侶は、勧進にあたって、幕府や天皇の権力を利用した。
 何のための勧進か。寺社の建築等の大土木工事を行うためである。こうした土木工事のためには、その専門家である非人や河原者が動員され、また鍛冶や石工、鋳物師などの職人を雇う必要がある。勧進上人は、事業家であり、起業家だったと見なすことができる。つまり、これら僧侶こそは、日本では、初期の資本主義の推進者だったのである。
 このように、政治的にも、また宗教的にも、農本主義のシステムの中に、重商主義のベクトルが深く浸透することになる。だが、この微妙な相互作用は、南北朝の動乱とともに内破してしまう。相容れない二つのベクトルを混ぜ合わせた結果、ついに矛盾が頂点に達してしまったのだ。これこそが、14世紀の大転換である。
 それ以降の近世へと向かう歴史の中で起きたことは何か。農本主義的なシステムの復活である。信長から秀吉を経由して、家康へと向かう路線の中で、農業や土地をベースにして、「日本国」を統一しようとする傾向が優位を占め、それと同時に、海を舞台とした商業のネットワークは断ち切られ、抑圧されることになる。信長は、一向一揆と衝突したし、秀吉や家康は、石高制に基づく租税制度を整備した。家康のとき、海を境界線とする「日本国」という統一体ができあがり、その外へと向かう貿易のルートはほとんど絶たれてしまった。
 つまり、14世紀の大転換を境にして、重商主義のベクトルと農本主義のベクトルの間の力関係が完全に逆転した、と言ってよいだろう。」

→網野にしても大澤にしても、神道や仏教、ひいては宗教についての知識が極めて偏頗であるとしか思えず、よくもまあこのような訳の分からない戯言を吐けるものだ、というのが率直な私の感想です。
 私の考えは以下の通りです。
 第一次縄文モード(平安時代)初期に支那に留学した最澄(767〜822年)と空海(774〜835年)は、それぞれ、仏教の研究、及び、実践、という面での仏教の日本への定着化に先鞭をつけていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
ところ、第一次縄文モード末期から第一次弥生モード(鎌倉時代〜)初期にかけて、仏教は、国家鎮護のためのものから、おもに個人の安心立命や魂の救済を求めるためのもの、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
へ、すなわち、国家儀典から宗教へ、と大きく変貌を遂げるわけです。
 第二次縄文モードの江戸時代において、日本で、欧米的な宗教概念に合致する宗教が消滅するに至り、現在に至っていることは、以前、「日本の「宗教」」(コラム#6495、6497、6499、6501)シリーズで論じたところですが、その末期において、一向一揆の頻発やカトリシズムの流行を見たところの、第一次弥生時代は、日本史の中で、極めて特異な時代であった、と言うべきでしょう。
 その原因については、既に察しがついた方が多いと思いますが、日本国内の、京都を中心としての、治安の悪化に伴う、(病死や事故死や災害死を含む)広義の自然死以外の不慮の死(戦乱・犯罪による死)の増大に伴う社会的・個人的不安の高まり、すなわち、日本の、世界標準的な社会に近い社会への下降・劣化、であったことは明白ではないでしょうか。(太田)(注9)

 (注9)弥生時代においてもそれまでの縄文時代に比して、また、第二次弥生モードの明治・大正時代においてもそれまでの江戸時代に比して、不慮の死が増大したというのに、どうして宗教の隆盛を見なかったのか、についてだが、前者では、日本が統一されれば不慮の死が基本的になくなることが予見できていたから神道の天孫降臨神話的再編程度で足り、後者では、不慮の死が(幕末明治初の一時期を除き)基本的に国外においてのみで生じたことから、教派神道の勃興程度で足りた、と、さしあたり、想定することとしたい。

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<脚注:第一次弥生モードにおける葬式仏教の成立> 

 「山口県立大の鈴木隆泰教授(インド哲学仏教学)は、・・・インドでは僧侶は内輪以外では葬儀に関わらなかったという。カーストという強い身分制社会では、カーストごとに人生における通過儀礼が定まっていた。世俗的なカースト制度と離れることが出家とされた仏教僧には不可侵の領域だったというのが、鈴木教授の見立てだ。「後にインドで仏教が滅ぶのは、葬式などの通過儀礼に関われず、社会に根ざせなかったからだ」・・・
 6世紀に仏教が伝来した日本はどうか。・・・山形大の松尾剛次教授(日本宗教史)<によれば、>・・・古代の僧侶は、国家鎮護を祈念する「官僧」だった。朝廷では「穢(けが)れ」が忌避され、いわば官僚の一員である彼らにも制約となった。穢れの最たる死をめぐっては、天皇や貴族の葬儀に関わることがあっても、積極的ではなかった。
 一方で、官僧身分を捨てた鎌倉時代の「遁世僧(とんせいそう)」は、死の穢れをものともせずに、民衆のなかで葬送儀礼に取り組んでいく。死体が遺棄されることが珍しくなかった時代に、きちんとした弔いを望む人々の声に応えることで、信者を増やしていったというのだ。「鎌倉仏教の僧侶によって、現代にもつながる葬儀に関わる儀礼が生み出された」と松尾教授は言う。」
http://digital.asahi.com/articles/ASG3766ZBG37UCVL022.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASG3766ZBG37UCVL022
(3月18日アクセス)

 日本でのお盆の出現はずっと後のことだが、お盆が下掲のように神道の先祖供養観と仏教の習合によって出現したように、第一次弥生モードにおいて生まれた葬式仏教もまた、神道の先祖供養観と仏教の習合によって出現した、と言ってよさそうだ。

 「お盆<は、>・・・古神道における先祖供養の儀式や神事を、江戸幕府が庶民に強いた檀家制度により仏教式で行う事も強制し、仏教行事の「盂蘭盆」(うらぼん)が習合して現在の形が出来た」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
 「盂蘭盆会<は、支那で、>・・・本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86
 「安居(あんご)は、それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること。及び、その期間の事を指す。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B1%85

→仏教は、人をその人間主義性に目覚めさせ、人間主義化する営みである以上、大部分が人間主義者である日本人には、本来、基本的に必要のないものだったが、神道と習合することで、儀式・行事面で、縄文モード、弥生モードを問わぬ日本人の恒久的ニーズに応えるとともに、宗教化した仏教の各派を支那から取り入れ、日本化させる形で、第一次弥生モードにおける日本人の新たなニーズにも応えた、というわけだ。(太田)
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(続く)