太田述正コラム#6827(2014.3.21)
<網野史観と第一次弥生モード(その6)>(2014.7.6公開)

 ここで、歴史の復習を兼ね、大澤の文章に、適宜私のコメントを付す形で、当時の歴史に関する基本的事項の復習を、少しすることにしましょう。

 「11世紀後半から13世紀前半にかけての時期に、公領と荘園の区別もはっきりとしてくる。こうして確立した土地制度を荘園公領制<(注5)>と呼ぶ。これは、農本主義のベクトルの上で生じたできごとである。

 (注5)「日本の中世における、荘園と公領を土台とした、重層的土地支配構造のことである。歴史学者の網野善彦が提唱した。11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立し、院政期を通じて発展し、鎌倉時代前後に最盛期を迎えた。その一方で、鎌倉時代には地頭による侵食を受け、室町時代には守護(守護大名)によって蚕食されるなど、武士の進出に伴って次第に解体への道を進み、戦国時代頃までにほぼ形骸化した。最終的には太閤検地で完全に消滅する。なお、・・・荘園・公領とは、それぞれ荘園公領制の土台となった寄進地系荘園・国衙領を指す・・・。

土地/職 権門  受領 大名田堵

荘園   本家 領家 荘官
公領 知行国主 国司 惣司・郷司・保司 」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92%E5%85%AC%E9%A0%98%E5%88%B6

→私は、律令制下の公地公民制/班田収授法は名目だけであり、実態はそれ以前と殆んど変わらなかったとの、いわゆる新説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%9C%B0%E5%85%AC%E6%B0%91%E5%88%B6
が正しいと考えています。
 更に、この点は、第一次縄文モードの平安時代を通じて変わらなかった、とも考えています。
 つまり、私は、荘園と公領は、それぞれ、大化の改新以前の豪族の田荘、天皇の屯倉(ウィキペディア上掲)、と同じような性格のものである、と考えている次第です。
 従って、第一次弥生時代に荘園公領制なるものが確立したことを強調する、上掲のような、網野の主張を受け入れることはできません。
 むしろ、注目すべきは、「注5」の中に出て来る「重層的土地支配構造」です。
 弥生時代、拡大弥生時代、第一次縄文モード、第一次弥生モードの各時代を通じて、日本の最大の産業は稲作を中心とする農業であったところ、私は、かかる「重層的土地支配構造」は、すなわち、人間主義社会におけるエージェンシー関係の重層構造を特徴とする政治経済体制なのであって、この間、一貫して変わらなかった、と考え、このことを重視しているのです。
 この私の基本的な仮説についても、実証的研究によって裏付けられることを期待しています。(太田) 

 荘園公領制の確立と並行して、神人・供御人制<(注6)>が確立する。神人・供御人制とは、主だった非農業民(職能民)を、正式に、国家的に制度化したものである。(一部の)職能民は、正式に、朝廷に直属することになったのだ。この制度は、重商主義に関連するベクトルの中に位置づけられる。

 (注6)「古代においては、天皇・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を贄(にえ)として貢ぐ慣習があり、律令制のもとにおいても租庸調などの税とは別に、贄の納付が定められていたと考えられている。これらを貢納する贄人を初めとする非農業民は、従来「無主」にして「公私共利」の地とされた山野河海の利用により生業をたてていたが、8世紀以降の律令制の解体、荘園公領制の成立とともに、荘園領主による制約を受けるようになってきた。11世紀以降、非農業民は有力寺社などに生産物を貢納することを理由に、これらに隷属する神人となっていたが、後三条天皇親政下において、内廷経済を充実させるべく山野河海に設定されていた御厨を直轄化するという政策がとられると、蔵人所とその下部組織である御厨所の所管となった御厨の住民が供御人と呼ばれるようになった。更に、保元元年(1156年)の「保元新制」において神人・供御人制が確立したと見られている。彼らは、貢納物の原料採取・作業・交易をする場を求めて移動・遍歴することを必要としていたため、関銭・津料などの交通税を免除され、自由に諸国を往来できる権利を得ることとなった。また、聖なる存在として国役の免除、給免田の付与なども獲得した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9B%E5%BE%A1%E4%BA%BA
 「御厨(みくり・みくりや)とは、「「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことである。本来は屋舎を意味する。・・・中世日本においては、皇室や伊勢神宮など、有力な神社が荘園(神領)を持ち、後に地名及び名字として残った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%8E%A8

→「神人・供御人制」などというこけおどしの言葉が用いられていますが、私見では、稲作を中心とする農業が導入される以前の縄文時代の狩猟採集業に係る政治経済体制・・恐らくは原初的なエージェンシー関係の重層構造をなしていたと思われます・・も、消滅することなく、維持され続けた、というだけのことなのです。
 そうであるとすれば、網野の言う重商主義は、農本主義の後に出現したのではなく、農本主義の方こそ重商主義の後に出現した、ということになりますし、どちらの政治経済体制も、基本的に同じ人間主義に根差すものである以上、この二つを、重商「主義」、農本「主義」と、あたかも画然と区別される別の「主義」呼ばわりするのはおかしいのであって、せいぜい、私のように、モードの違い、と捉えるべきなのです。(太田)

 二つのベクトルが相互に支え合う関係を理解するためには、租税がどのように徴集されたかを見るとよい。10世紀に、平将門の乱や藤原純友の乱といった、あわや国家の分裂か、というような大事件が起きたのがきっかけになって、国守・受領による租税の請負体制が導入された。それぞれの国の長官が、自分の責任で、国家に納入すべき一定額の租税の納入を請け負ったのである。
 その請負の業務は、具体的にはとのようになされたのか。結局、最終的な徴税の任にあたったのは、「借上(かしあげ)<(注7)>」と呼ばれる金融業者であった。この金融業者こそ、神に直属すると見なされていた人々、つまり神人である。国守は、租税を国家に納入する際には、これら神人から米を借り入れる。神人の方は、国守から、徴税令書を受け取る。神人は、徴税令書をもって、それぞれの国に行き、神仏の権威を背景にもった実力によって、現地の蔵から物を出させたのだ。

 (注7)「平安時代後期から南北朝時代にかけて存在した金融業者のこと。・・・宋銭が広く通用するようになった院政期(12世紀以後)に見られはじめ、特に寺社に属する僧侶や神人がこれに関わる事例が多かった。・・・朝廷<が>年貢の取り立て業務の請負に借上を起用する場合があった・・・。・・・南北朝時代になると、ほぼ同一の業務を行う土倉が登場するようになり、室町時代には土倉の呼称で統一されて文書などからも借上の名称は姿を消すことになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%9F%E4%B8%8A_(%E4%B8%AD%E4%B8%96)

→網野は、借上と徴税との関わりを重視し過ぎていると思いますが、これは、無理矢理、重商主義なるもののこの時期における出現・・前述のように、私見では誤った認識・・をアッピールさせたいがゆえでしょう。(太田)

 要するに、徴税の業務を実質的に担っているのは、神人たちのネットワークなのだ。つまり、農本主義的なアイデアに基づいて、土地(水田)に対して課税されているのだが、実際に、税を徴収しているのは、神人としての金融業者のネットワーク、つまり重商主義的なラインで機能しているネットワークである。こうして、農本主義と重商主義が共同して租税制度を維持していたことになる。
 神人たちの間で、あるいは神人と国守の間で取り交わされた文書は、原初的な為替手形と見なすことができる。とすると、ここで一つの問題が生ずることがわかるだろう。何が為替手形の流通を保証したのか。手形はただの文書だから、いつでも紛争が生じうる。何がこの紛争を解決したのか。
 公権力(朝廷権力、鎌倉幕府)は、重農主義(土地中心主義)に基づいているので、土地をめぐる紛争に対しては熱心だった。しかし、銭の貸借や商業関係の訴訟に対しては、公権力は、まったく冷淡だ。
 ここで、紛争の解決にあたったのは、交通路・流通路を実際に管理していた人々の組織である。かれらは、公式の制度の外にいた。公権力の側からは、悪党<(注8)>とか、海賊と呼ばれていた人々、かれらこそが、為替手形の流通を保証し、金融をめぐるトラブルや紛争を解決していたのである。この場面で、もう一度、農本主義的な租税制度は、重商主義的なベクトルにかかわる、非公認の組織によって助けられていることになる。

 (注8)「荘園・公領における支配体制または支配イデオロギーを外部から侵した者を指<す>。・・・悪党紛争の実態は、本所一円地同士または本所一円地と地頭層との所領紛争であり、一方の本所から見た悪党とは、その紛争相手たる本所一円地の領主だった・・・。・・・本所はしばしば幕府へ悪党追捕を要請していたが、本所同士の紛争は本来、朝廷の管轄であるとして、幕府は悪党追捕に消極的だった。・・・言葉を変えれば、在地領主層どうし、在地領主と荘園領主の紛争解決機関として幕府が存在したが、その幕府の管轄から外れた所に悪党が存在したのである。しかし、正嘉年間(1257年〜1258年)に入り、飢饉の深刻化による悪党活動の激化を受けて、幕府は悪党を夜討・強盗・山賊・海賊と同等視することに決め・・・、その鎮圧にようやく乗り出した。・・・<なお、>蝦夷、海民、芸能民、遊行僧<も悪党と呼ばれるようになっていく。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E5%85%9A

 やがて、公権力の方もまた、積極的に、自らこの悪党の役割を引き受ける方向へと政策を転換する。たとえば、後醍醐天皇や足利義満は、悪党や海賊をそのまま味方に引き入れて、その武力を活用した。」

→網野やそのエピゴーネン達は、きちんとした実証的研究に拠らずして、自分達の小難しい様々な思い込みを垂れ流している、というのが、いささか辛口過ぎるかもしれませんが、私の以前からの印象です。
 日本では、人口が増え、また、新しい田畑の開墾が次第に困難になっていくにつれ、農地や農地がらみの水利権等を巡る紛争が、全国的に多発・激化するようになったところ、国の対応・・紛争予防・解決制度の整備・・が後手に回ったため、自力救済が増え、治安が乱れ、悪党やら武士やらが暗躍し始めた結果、(ずっと後の19世紀後半において、欧米列強によって、第二次縄文モード(江戸時代)から第二次弥生モード(明治/大正時代)へと外生的に移行させられたケースとは違って、)12世紀後半に、第一次縄文モード(平安時代)から第一次弥生モード(鎌倉/室町/安土桃山時代)へと内生的に移行した、というのが私の考えなのです。(太田)

(続く)