太田述正コラム#6819(2014.3.17)
<網野史観と第一次弥生モード(その2)>(2014.7.2公開)

 「伝統的には、モノは、主に互酬的な贈与を通じて人々に分配され、商品としての交換はマイナーだった。日本に限らず、伝統的な社会では、すべてそうである。こうした状況の中から、モノとモノとの商品交換が実現するためには、ある操作が必要である。
 モノを、互酬的な贈与の関係のネットワークから切り離さなくてはならないのだ。このような切り離しがなされる場所が、市場(市庭)である。網野用語で言えば、市場は、「無縁」の場(日常の世界の関係から切れた場)である。それゆえ、かつては、河原、中洲、浜、坂といった境界的な場所、共同体が外部と接する場所に、市が立てられた。
 贈与とお返しより成る日常の関係から切り離されるということは、しかし、別の関係につながれることでもある。日常の関係から切り離されたモノは、聖なる世界、つまり神に連なっているのだ。古代日本においては、さらに他の民族においてもしばしば、虹が立った場所に市場を開くという習俗がある。虹が地上と天上、人間の世界と神の世界をつないでいると見なされたからである。市場で無縁状態になったモノは、神の世界に所属している。それゆえに、誰のモノでもない、とも見なすことができる。だからこそ、そのモノが、別の人に渡っても、もはや、誰かを拘束することにはならないのだ(それに対して、贈り物は、いつまでも送り手に結びついているがために、受け取ってしまえば、送り手に従わざるをえなくなる)。・・・
 商品交換と似たことは、原初の金融にもいえる。日本における金融の起源、つまり「モノを貸して利息を取る」ということの端緒は、「出挙(すいこ)」にある。出挙は、稲作と結びついている。最初に獲れた初穂は、神に捧げられ、それは共同体の神聖な蔵に貯蔵される(その蔵を管理したのが首長)。その初穂は、翌年、農民に貸し与えられ、農民は、収穫期に「利息(の稲)」をつけて、蔵に戻さなくてはならない。これが出挙で、律令国家よりも前から行われていた。
 なぜ、利息を付けなくてはならないのだろうか。人と人との貸借では、その必要がなかったのに。私の考えは、こうである。その種籾aが「神に属していた」という事実が+Xの価値を生み出しているのではないか。神は、人間以上の超越的な実体だからだ。つまり、われわれがこうして安全に存在できているということ自体が、多かれ少なかれ、神のおかげだからだ。それゆえ、人は、神から与えられたときには、その「剰余価値X」の分までも含めて返さなくてはならない。
 ともあれ、交易や金融の世界は、このように、共同体の外部にいる超越的な神々に直結している。したがって、交易や金融には、普通の俗人はたやすくかかわることができない。中世までは、商人、職人、金融業者は、神や仏の直属民という資格で活動している。神の直属民は、「神人(じにん、じんにん)」、仏の直属民は「寄人(よりうど)」、天皇の直属民は「供御人(くごにん)」とよばれていた。」
 
 これは、大澤による、(冒頭で触れたところの、)網野史観の核心たる、日本史の二元原理のうちの「重商主義」についての、(大澤自身の見解も一部交えた)説明です。
 つまり、「重商主義」は、宗教と結び付いていた、というのです。
 他方、「農本主義」はそうでなかった、と。
 しかし、そんな話については、歴史についてさほどの専門知識を持たない者であっても、ただちに荒唐無稽であることに気付くはずです。
 (世界共通の一般論として述べられている部分についても、首肯できませんが、ここでは立ち入りません。)
 実に単純な話、日本においては、「農本主義」も、いや、「農本主義」こそ、下掲からも明らかなように、宗教と結び付いていたからです。

 「わが日本は、豊葦原の千五百秋の瑞穂の国=豊葦原の国はいつまでも毎年秋になると稲穂の波打つ豊かなよい国、と言われてきた。
 周知のごとく十一月二十三日の勤労感謝の日、すなわち新嘗祭には天皇陛下が新しく収穫された米を嘗められ(食され)、天照大神はじめ八百万の神々に収穫を感謝し、来年もまた豊穣・安寧を下さるよう祈願されるお祭である。国民も五穀豊穣を祈念し、農民に感謝する日でもある。
 また記・紀などによれば、高天原において地上の日本を統治せよと天照大神に命じられ、玉、剣、鏡の三種神器とともに斎庭の稲穂を授けられた嫡孫・瓊々(にに)杵(ぎの)尊(みこと)は、高千穂に天降られた。しかし地上は物の識別ができないほど暗闇であった。
 そこで瓊々杵尊は授けられた稲穂を揉み、籾にし、四周に蒔かれた。すると俄かに天が開け、太陽も月も照るようになったという。
 毎年春には天皇陛下御自らお田植え、秋には稲刈りをされる。即位後最初の新嘗祭には、大嘗祭が行われる。このように天皇陛下にとり、もちろん日本にとっても、米もしくは稲は単なる食糧ではない。稲作は、わが国の「和=協調・協力」「礼」「勤労」「信」…という国民性や文化を形作る、極めて重要な意義を持っているのである。」
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150706.htm

 もう一つだけあげれば、下掲からも、日本における「重商主義」の世俗性が明らかであることです。

 「日本では7世紀には、飛鳥の海石榴市(つばいち)・・・などに一種の統制市場があった・・・。また、・・・漁民や農民が往来する場所や交通の要所で・・・市が成立していたことがわか<ってい>る。
 <日本の>古代国家においては、<支那>の制度を参考にしつつ、・・・都の東西に市が設置されて・・・官営の東西市が運営されていた。・・・
 当初は官庁の指定した特定区域以外での商業は禁じられていたが、律令制の弛緩とともに交通の要所など人が集まる場所には月の決まった日に市が立つ定期市が形成されるようになった。近畿地方を中心として荘園では地方市場が生まれ、行商人が活動した。市の立つ日(市日)としては「八の日」が多く、「三斎市」<として、>・・・8・18・28日に市が立つ<運びとなり、>・・・15〜6世紀には、月6回の「六斎市」が生まれる。
 官製の東西市は律令国家とともに衰退し、都市には定住の市人の中から卸売商を行なう者が現われ、問屋集合による卸売市場が生まれる。これは座を形成したが、16世紀以降の楽市・楽座によって座は解体され、城下町の中央市場と、各地の住民のための在郷市場町における小売市場に分かれてゆく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%A0%B4
 「<日本>で専門の商人が現れるのは8世紀以降である。平城京には都城の内部に官営の市が設けられ、市籍をもつ商人がそこで売買を行った。平安京には東西の市が設けられ、市籍をもたぬ商人もふくめて売買がなされた。平安時代には行商人のなかにも商いを専門におこなう人びとが現れ、各地の特産物などが行商された。院政期や平氏政権の時期には、京都などにおいて常設店舗をもつ商人が現れたが、彼らは寺社や権門勢家と結びつくことで自らの力を保持ないし拡大させようとした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E4%BA%BA

 しかし、網野が、このように、日本における商人ないし商業を、宗教と無理矢理結び付けようとした動機は想像できないでもありません。
 なぜなら、網野にも初歩的な世界史の知識はあったはずであるところ、下掲のように、日本以外では、古今東西を問わず、商人ないし商業を貶める地域が大半であったというのに、人間主義社会の日本では、(部落民に係るものを除き、)職業に貴賤などなかったことから、そのような発想が、まずみられなかったからです。

 「前近代諸社会における商人階級・・・の地位は、・・・高い所から、農や匠のように労働もしくは他者達の労働ではなく「単なる」交易によって利潤を得ることから想定される(presumed)不快さ(distastefulness)に基づいて、支那文化におけるように、低い所まであった。
 古典ギリシャないし古代ローマの商人達は大きな富を享受していた場合もあったけれど、通常、その社会的地位は高くなかった。
 ただし、古代末期のシリアやパレスティナといった所では、商人達は高い社会的地位を有していた。
 <また、>中世の欧州における商人達に対する諸態度は、商人の諸活動を高利貸しの罪と密接に結びつけていた(associated)ところの、キリスト教会による批判によって強く影響されていた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Merchant

 つまり、網野は、日本において、通常貶められるはずの商人ないし商業が、農民ないし農業と同等の地位にとどめられた要因を、無理矢理宗教に求めたのではないか、と私は忖度しているのです。

(続く)