太田述正コラム#6807(2014.3.11)
<資本主義と不平等(その10)>(2014.6.26公開)

 更に、ピケティは、興味深いことに、今日の、金融の精緻化(financial sophistication)と資本に対する国際的競争の拡大がrを高止まりさせることに資している、と見ている。
 多くの人々が金融仲介に疑問を投げかけるとともに、それを大恐慌を勃発させたと非難するのに対し、ピケティは、それが金融資本に関して新しい、かつ、より多くの生産的諸価値(uses)を見出(uncover)し、高い収益率を維持するのに資している、と見ているのだ。
 しかし、この高いrを経済にとってよいことであるとするどころか、彼は、それは、より高い課税によって対処される(checked)ことがなければ大災厄の前兆である、とみなしているのだ。
 <このままでは、>諸収益は全面的にロボット群の所有者達に帰属することになろうし、要素(factoral)所得分配は、資本100%、労働0%になることだろう。・・・
 ピケティは、今日のフランス、英国、ドイツにおける諸遺産相続の年次フローの国民所得に対する割合は、1世紀前と同等で、国民所得の8〜12%、であることを示す。
 更に、賃金分配の低い方の半分の勤労者の資本化された(capitalized)諸稼得高(earnings)と同等の遺産相続を受ける1970〜80年代生まれの人口の割合は約12%だが、これもまた1世紀前と同じだ。
 <このままでは、>これからの世代において、それは恐らく15%に達することだろう。
 結論として、ピケティは、確かに、今日の「家父長的資本主義」が1世紀前の資本主義と全く同じではないことには同意する。
 すなわち、それは、より広い裾野(base)を持ち、最上位における富の集中はより少ないし、より高い労働諸収入がより多くみられる。
 しかし、資本主義の鍵となる様相・・勤労の痛みなくして満足のいく所得を生み出す能力・・はまだ健在であり、ラスティニャックのジレンマが戻ってきているのだ。
 銀行家達や金融家達の諸所得は、果たして限界生産性によって決定されるところの古典的な労働諸所得なのだろうか。
 彼は、これらの頂点における諸稼得は、マネージメントの質とは何の関係もない偶然的諸出来事に大部分依存していることを示す証拠を引用する。
 そして、これら<の諸稼得>を制限するために、ピケットは、高い(「没収的(confiscatory)」)課税が役割を持つと見ているのだ。
 超金持ちを対象とする高い諸税は、微小なる収入効果しか持たないだろう。
 しかし、それらは、このように途方もない諸給与を銀行家達やマネジャー達が求める気を削ぐことだろう。・・・
 <このような>課税は、金持ちの政治的な力を減殺するためにも必要だ。」(C)

4 終わりに

 脚注でピケティの発想の背景を論じたところですが、この背景の更に根底にあるものとして、フランスの個人主義がイギリスの借りものである点を、改めて、指摘しておきたいと思います。
 一般論として、借り物の個人主義の社会は、エゴイズムと放縦に堕しがちであり、それへの抑えとして、その社会は、国家介入に期待し、依存せざるをえなくなりがちです。
 つまりは、借り物の個人主義の社会では、個人主義のコインの反面たる資本主義もイギリス(や米国)のようには機能せず、従ってまた、資本主義には負のイメージがつきまとうことになりがちなのです。
 フランスは、まさにそういう社会なのである、と私は見ています。
 そんな社会では、資本主義についての経験論/帰納論的学問であって、個人主義に立脚しているところの経済学が、イギリス(や米国)のような人気を博すことはありえず、従ってまた、経済学者は質量ともにイギリス(や米国)と比べて見劣りすることとなり、フランスの現実と殆んど関わりを持たないところの、合理論/演繹論の系譜の中に位置づけられる、ごく少数の数理経済学者しか、フランスは生み出しえなかった、というわけです。
 もっとも、だからこそ、フランスは、内在的かつ根底的な経済学批判を行いうる環境にもある、とも言えるのであり、ピケティがついにそれを成し遂げたのかもしれないのです。
 果たして、我々が、ピケティをそれほども高く評価してよいのか否かについての結論は、当面保留しておくことにしましょう。

(完)