太田述正コラム#6799(2014.3.7)
<江戸時代における外国人の日本論(その12)>(2014.6.22公開)

 次は、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain。1850〜1935年)です。
 彼は、大学進学に失敗している。「1873年・・・に・・・来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで1886年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、1888年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、1890年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、1899年初版、1905年第二版)などの多くの著作を発表した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3
という人物です。
 ちなみに、彼の末弟は、これもまた大学に行っていないのですが、「ドイツに帰化した人種主義者で・・・国家主義や汎ゲルマン主義、人種的反ユダヤ主義を支援し・・・1899年の著書『19世紀の基礎』・・・<が>20世紀初頭のドイツにおいて、人種的・イデオロギー的な反ユダヤ主義の聖典の一つになった」ことで悪名高いヒューストン・ステュアート・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain。1855〜1927年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3
です。

 以下は、『日本事物誌1』からです。

 「日本人の間に長く住み、日本語に親しむことによって、・・・最近の戦争や、その他の変化の間における国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、これらの外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。極東の諸国民は――少なくともこの国民は――ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、間違っていることが立証された。同様にまた、異教徒の諸国民は――少なくともこの国民は――キリスト教徒と比較して道徳的に劣っているという考えは、誤りであることが証明された。
 過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、日本ほど前非を認めるのが早く、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては日本ほど率直で穏健であり、戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、とうてい主張できないのである。もし少しでも「黄禍」があるとするならば、ヨーロッパ自身の良き性質にもまさるさらに高度の良き性質を、その新しい競争相手が所有しているからにほかならない。・・・

→バジル・ホール・チェンバレンが無学であったこと、弟同様、異国にのめり込む傾向があったと思われることから、相当割り引かなければなりませんが、私は、彼が日本文明の至上性を認めたことを、そのまま素直に受け止めるべきであると思います。(太田)

 1900年<(明治33年)>、北京救出のため連合軍とともに進軍した日本派遣軍は、もっとも華々しい活躍を見せた<(北清事変)>。彼らはもっとも速く進軍し、もっともよく戦った。彼らはもっともよく軍律に従い、被征服者に対してはもっとも人道的に行動した。

→まさに、人間主義の発露ですね。
 何度も指摘しているように、そんな日本人が、日支戦争の際に、一転、「被征服者に対して・・・人道的に行動し」たと必ずしも言えない部分があったのはなぜか、こそ我々が解明しなければならない点なのです。(太田)

日露戦争<(1904〜5)>は同様のことを物語っている。日本は今や、その大きさにおいては世界最強の軍隊の一つを所有していると言っても過言ではない。この事実には――事実と仮定して――さらに驚くべきものがある。それは、日本陸軍が作者不明(という言葉を使わせてもらえば)だからである。世界的に有名な専門家がこのすばらしい機構を作りあげたのではない――フレデリック大王も、ナポレオンもいない。それは、狭い範囲以外にはほとんど知られていない人びとが作りあげたものである。」
http://ameblo.jp/sakurayozora/entry-10447144936.html

→ここは、チェンバレンさん、イギリスの海軍だって陸軍だって「世界的に有名な専門家が<そ>のすばらしい機構を作りあげたのではない」じゃないの、と混ぜっ返したくなりますね。
 突出した個人の力量に頼らなくても、効果的かつ効率的な組織をつくることができる、というのが、日本文明やアングロサクソン文明のような、優れた文明の真骨頂なのです。(太田) 

 また、以下は、『日本事物誌2』からです。

 「絵画や家の装飾、線と形に依存するすべての事物において、日本人の趣味は渋み――の一語に要約できよう。大きいことを偉大なことと履き違えているこけおどし、見せびらかしと乱費によって美しさを押し通してしまうような俗悪さなどは、日本人の考え方のなかに見出すことはできない。・・・
 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。ほんものの平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)社会の隅々まで浸透しているのである。
 ヨーロッパが日本からその教訓を新しく学ぶのはいつの日であろうか――かつて古代ギリシア人がよく知っていた調和・節度・渋みの教訓を――。アメリカがそれを学ぶのはいつであろうか・・・。・・・

→より優位の文明から低位の文明は学ばなくてはならない、という当然のことをチェンバレンは言っているわけですが、遺憾ながら、例外的なごく一部の人を除き、日本文明の至上性を認めようとしない欧米諸国は日本文明から学ぶことができないのに対し、中共は、(ある意味、イギリス人よりも強固な中華意識を抱き続けてきたというのに、その意識を捨て去り、)日本文明の至上性を認め、日々、日本文明から学んでいることを我々は知っています。(太田)
 
 しかし、日本が私たちを改宗させるのではなくて、私たちが日本を邪道に陥れることになりそうである。すでに上流階級の衣服、家屋、絵画、生活全体が、西洋との接触によって汚れてきた。渋みのある美しさと調和をもつ古い伝統を知りたいと思うならば、今では一般大衆の中に求めねばならない。」

→チェンバレンは第二次弥生モードの日本を批判しているわけです。
 その日本は、昭和期に入ると、自ら縄文モードに回帰し始めます。(太田)

 次は、アリス・ベーコン(Alice Mabel Bacon。1858〜1918年)です。
 彼女は、ハーヴァード大卒。「1884年に・・・華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日。来日中の1年間の手紙をまとめたものを1894年『日本の内側』(日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本の内側』)として出版し反響を呼ぶ。<一旦>帰国後・・・、1900年・・・東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)と女子英学塾(現・津田塾大学)の英語教師として赴任、1902年4月に任期満了で帰国<する>・・・。<彼女にはもう一つ、日本に関する著書、>『日本の女性』(日本語訳題『明治日本の女たち』)<がある>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3
という人物です。

 以下は、『明治日本の女たち』からです。

 「日本が芸術や造形、色彩を愛する国として欧米で知られているのは職人の功績である。
 職人は忍耐強く、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で納得できないものを作ることは決してない。日本人は貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで誰もが自然の中にも日用品の中にも、美を見い出し大切にしている。」

→日本人がいかなる職業に従事していても一所懸命であるのは、日本の人間主義に職業の貴賤という観念がないからです。(太田)

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<脚注:鎌倉の海岸2題>

 エリザ・ルアマー・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore。1856〜1928年)は、米オバリン大学卒、「の著作家・写真家・地理学者。ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事となった。1885年から1928年にかけて度々日本を訪れた親日家であり、日本に関する記事や著作も残している。ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜並木を作ることを提案した・・・。」、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%A2%E3%82%A2
「1925<年>・・・69才でワシントンを去りジュネーブ、スイスに移住。その理由は、米国会議が人種差別的な[排日移民制限法]を通過させ・・・1924<年>7月1日施行した事に彼女は大いに激怒した為と伝えられている。」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/romp/Eliza.html
という人物であるところ、彼女は、(それがいつのことか、また何に載っているのか不明だが、)鎌倉の海岸の光景をこう描写している。
 「日の輝く春の朝、大人は男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し、砂浜に広げて干す。・・・漁師のむすめたちが脛(はぎ)を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれをあねさんかぶりにし、背中に籠(かご)をしょっている。子供らは泡立つ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうにころげ回る。 ・・・婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。」

 また、英国公使ヒュー・フレイザー(Hugh Fraser。1837〜94年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC_(%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98)
の妻メアリ(メアリー=Mary)(コラム#1508)は、『一外交官の妻の日本滞在−故郷から故郷への手紙』(邦訳『英国公使夫人の見た明治日本』)(1899年)
http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/2530896.html
の中で、明治23年(1890年)の鎌倉の海岸の光景をこう描写している。 

 「美しい眺めです。----青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。
 さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。・・・物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂浜の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢(おわい)や不幸の様相はないのです。」
http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/44568001.html

→恐らくは独立に得た所見なのだろうが、同じ場所について、結果的に同じような光景を描写をしていることは微笑ましい。
 日本の人間主義社会の優しさ、美しさ、そして至福をこの二人の女性は見逃していない。(太田)
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(続く)