太田述正コラム#6787(2014.3.1)
<江戸時代における外国人の日本論(その6)>(2014.6.16公開)

<脚注:フランスの初代、及び第2代駐日公使の無能さ>

 ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(Gustave Duchesne de Bellecourt。1817〜81年)は、フランスの駐日初代領事、そして初代公使であり、日本在勤は1859〜64年。
 「<彼は、>日本との外交において・・・好戦的な姿勢<だったが、>・・・<これは、>当時・・・他の地域で重要な軍事的懸案を抱えており、日本との摩擦は避けたかった<ところの、>・・・本国政府からは批判されることとなった。・・・<また、>ベルクールは次第に親幕府的な立場をとるようにな<り、>・・・<彼が後任の>ロッシュに<交代するにあたって、>・・・老中はフランス政府にベルクールの留任を嘆願するほどであった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

→ベルクールは、パリ大学法学部卒・・横浜国立大学の西堀昭の推測・・で弁護士資格を取ってから仏外務省入省、という人物であるところ、西堀は、上掲の前段には言及しないまま、後段のようなベルクールを高く評価している
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/657/1/KJ00000160085.pdf
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/690/1/KJ00000160139.pdf
が理解しがたい。
 私は、本国政府の方針と齟齬をきたす部分があったことや、幕府に肩入れし過ぎた点等は、禍根を残すことになったと思う。
 また、彼が任地の日本について、まとまった著作を残していないことは、一般論としては、外交官に本来そこまで求めるべきではないものの、彼が、日本に長期滞在した最初のフランス人であったことに鑑みれば、ハリスやオールコックと比べるまでもなく、知的怠慢の誹りを免れまい。(太田)

 また、後任の駐日公使たるレオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Leon Roches。1809〜1900年)は、日本在勤は1864〜68年だが、以下のような人物だ。

 「グルノーブル大学に入学するがわずか半年で退学し、アフリカのアルジェリアに派遣されるフランスの遠征軍に参加し、・・・アラビア語に堪能となり、アフリカ諸国で総領事を務めることとなった。・・・
 1866年・・・末にカション<(注)>が帰国した後はフランス公使館に通訳はおらず、・・・幕臣が通訳を務めた。これは多数の通訳官を有していた英国公使館とは対照的であり、結果、反幕府勢力に関する情報収集能力に欠けることとなった。・・・
 ロッシュは[ベルクールのそれを引き継ぐ形で(西堀の見解)]幕府寄りの立場を取る<とともに>、新任の英国公使ハリー・パークスへの対抗意識もあり、内政不干渉を建前とする英国とは異なり、積極的に幕府を支援していく。・・・
 徳川慶喜が将軍となると幕政改革の構想を建言し幕府中心の統一政権確立に努めた(慶応の改革として実現する)。ロッシュの幕府への極度の肩入れは、フランス本国の意向を無視したものとなり、最後は「個人外交」の様相を呈してきたため、フランス外務省はロッシュに帰国命令を出した。が、これが届いたときにはすでに幕府は崩壊していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

(注)ウジェーヌ・エマニュエル・メルメ・カション(Eugene-Emmanuel Mermet-Cachon。1828〜1889年)は、「幕末に来日したフランス人の神父。日本語に堪能で、<ベルクールと>ロッシュの通訳を務めたが、単なる通訳以上の働きをしていたとも言われている。・・・
 <彼は、>宣教師として来日したが、<函館で過ごした後、>江戸に移ってからは宗教活動はほとんど行っていない。日本語が話せることを活かし、幕府とフランスの関係強化に大きな役割を果たした。ただ、悪徳商人のような動きをしたようで、西郷隆盛からは「奸物」、勝海舟からは「妖僧」と言われている。
 親友とも言える関係にあった栗本鋤雲も、「小人」であると述べている。実際、徳川昭武の教育係から外されたというだけの理由で、幕府が最もフランスの支持を必要としていたときに、反幕府的な発言をするにいたった。
 <なお、彼は、>お梶という日本人女性と事実婚関係にあった。」
http://wpanda.net/j/6e/00/d8/ee9aff1b63b59243aa738c1f7a441bc8.htm

→こんな、破戒僧であるところの、いかがわしい人物を通訳兼側近として重用したベルクールにはそれだけでも外交官として疑問符が付くところ、ロッシュに関しては、カションの帰国後、自前の通訳を雇わなかったというのは言語道断であって、完全に外交官失格であると断定してよかろう。
 しかも、前任のベルクール以上に幕府にのめり込んだ結果、仮に日本の存在がもっとフランスにとって大きかったならば、自国に取り返しのつかない損害を与えた可能性が大だ。
 このロッシュに対して、初代駐日イタリア公使のヴィットリオ・サリエ・ド・ラ・トゥール(Vittorio Sallier De La Tour)(日本在勤:1867〜)が、私と基本的に同じ理由をあげて、極めて批判的であったことは興味深い。

http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/4329/1/2-2_Bertelli.pdf

 こんなロッシュが本国政府によって解任されたのは当然のことだ。
 もちろん、ロッシュにも、日本についてまとまった著作はないが、そもそも、彼に書けるわけがなかったと言えよう。
 こう言っては語弊があるが、米英はもとより、イタリアにすら劣るような無能な人物を2代続けて日本に公使として派遣したフランスには、ただただ呆れるほかない。
 ちなみに、ラ・トゥールは、(特殊な分野であるとはいえ、)下掲のような、出版に値する日本論を残しているところだ。

 ピエトロ・サヴィオ著、岩倉翔子訳『一八六九年六月ドゥ・ラ・トゥール伯爵閣下により実施された、日本の内陸部と養蚕地帯におけるイタリア人最初の調査旅行―詳細な旅行記と養蚕・農業・農作物の特殊情報に関する詳記』(『就実大学史学論集』第21号、2006)(上掲) (太田)
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(続く)