太田述正コラム#6749(2014.2.10)
<個人主義の起源(その7)>(2014.5.28公開)

3 私の「反論」

 (1)欧州・イギリスの「戸籍」制度

 インターネット上で調べた限りでは断片的な情報しか得られなかったものの、最終的に予想外の「発見」へと辿りついた(らしい)過程が(少なくとも自分には)まことに面白かったので、この過程を含め、ここでご披露したいと思います。

 別件で、中共のあの(農村の人々を都会の人々と差別しているとして悪名高い)戸口(hukou)制度のことを調べようと思ったのがことの発端です。
 そうしたところ、戸口の正式名称は戸籍(huji)であって、古代支那に起源がある、というではありませんか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hukou_system
 しかも、戸籍については、周時代から始まった記述が、漢時代までで途切れ、その後、中共の成立後の復活まで言及がないのです。(同上)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hukou_system
 この時、中共の現在の戸籍制度は、日本から再輸入されたものではないか、という疑いが私に生じました。
 この疑いは、どうやら正しかったようです。
 間接的証明に過ぎないし、少し長くもあるけれど、下掲の引用文を読んでみてください。

 「古代以来の中国の華北社会では戸(こ)と呼ばれる形態の緊密な小家族が成立し、これが社会構造の最小単位として機能していた。そのため政権が社会を把握するためには個々の戸の把握が効果的であり、支配下の民の把握を個人単位、あるいは族的広域共同体単位ではなく、戸単位で行った。この戸単位の住民把握のために作成された文書が戸籍である。中華王朝や漢民族世界が華北から拡大しても、政権の民衆把握は戸籍を基礎として行われ、日本、朝鮮半島国家など周辺地域の国家でも戸籍の制度は踏襲された。
 日本では律令制を制定して戸籍制度(→古代の戸籍制度)を導入した当時、在地社会の構造は華北のように戸に相当する緊密な小家族集団を基礎としたものではなかった。平安時代になって律令制衰退後、朝廷による中央政府が戸籍によって全人民を把握しようとする体制は放棄され、日本の在地社会の実情とは合致しなかった戸籍制度は、事実上消滅した。地域社会の統治は現地赴任国司筆頭者(受領)に大幅に権限委譲、さらに受領に指揮される国衙では資本力のある有力百姓のみを公田経営の請負契約などを通じて把握し、彼らを田堵・負名とし、民衆支配はもっぱら彼ら有力百姓によって行われるようになった。その後、上は貴族から下は庶民に至るまで、家(いえ)という拡大家族的な共同体が広範に形成されていき、支配者が被支配者を把握しようとするとき、この自然成立的な「家」こそが把握の基礎単位となった。
 全国的な安定統治が達成された徳川時代の幕藩体制下でも、住民把握の基礎となった人別帳は、血縁家族以外に遠縁の者や使用人なども包括した「家」単位に編纂された。明治時代になると、中央集権的国民国家体制を目指すため、「家」間の主従関係、支配被支配関係の解体は急務であった。戸籍を復活させて「家」単位ではなく「戸」単位の国民把握体制を確立し、「家」共同体は封建的体制下の公的存在から国家体制とは関係のない私的共同体とされ、「家」を通さずに国家が個別個人支配を行うことが可能となった・・・
 戸籍制度は東アジアで戸と呼ばれる中華文明圏で成立した家族集団の認定を基礎とする、他地域には存在しない特有のものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%B1%8D

 つまり、日本の(私の言うところの)第一次弥生モードの時に、当時の支那から継受された戸籍制度は、日本の疑似血縁集団たる家(イエ)制度という実態の前に自然消滅し、(同じく私が言うところの)第三次弥生モードの明治期において、仏独等の欧州諸国の身分登録制度(後述)に倣って、古の戸籍制度を復活させたものだったわけであり、支那においても・・このあたりの事情は更なる調査が必要ですが・・戸籍制度は(やはり私が言うところの)一族郎党「制度」によって消滅していたところ、ようやく中共成立に至って、復活した日本の戸籍制度を再輸入することで支那でも戸籍制度が復活した、と見てよさそうだ、とこの時自分で頷きました。

 そこで、今度は、(狭義の)欧州における身分登録制度について調べてみました。
 これも少し長いけれどどうぞ。

 「ドイツの身分登録制度は、教会による民衆把握の手段として「教会簿」が発展した。現存する古いものとしては、1524年のセバルドス教会(ニュ−ルンベルグ)の婚儀簿や1531年のシュテファン教会(コンスタンツ)の洗礼簿と婚儀簿がある。
 ところが、キリスト教派の分裂によって異宗派間の婚姻の身分登録を解決できないという問題が発生し、教会婚から民事婚へとの移行が始まり、やがてナポレオン法典(1804年)で制度化された。ドイツも含む欧州諸国の身分登録制度はナポレオン法典を模範としている。
 民事身分登録制度の揺籃は、〈1〉人間の出生、婚姻、死亡という根源的な身分変動事項が宗教的儀礼から私事化され個人の宗教からの解放という形として現れた。特に婚姻は信仰の自由と共にその自由が要請され婚姻の自由が保障されるようになった。このように婚姻の自由が民事身分登録制度の嚆矢となった。〈2〉国家が教会に代わって権力を掌握しようとするというという過程にあった。すなわち、国家は教会から人民の掌握を解放し自ら人民を統制する手段として民事身分登録制度を確立させたのである。
 国家による民事身分登録制度は異民族・少数民族およびその信仰する宗教から彼らを統制するという側面が強調され、それは特にユダヤ人・ユダヤ教の統制という大きな目的があった。このことはナチス・ドイツのユダヤ人統制に大きな力を発した。・・・
 ドイツの現在の身分登録制度は、ヴェルテンベルク王国の1807年の「新しい教会簿と家族簿の導入に関する勅令」に始まる。王国がナポレオン支配下で成立したことからフランスの影響を受けているが、家族簿を居住地教会(カソリック司祭および福音派牧師)に管理させるというものであった。家族簿の記載様式は日本の戸籍に似ている。」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_germany.htm

 つまり、家制度の伝統がある日本や、一族郎党「制度」の新伝統(?)がある支那とは異なり、(狭義の)欧州は、キリスト教の影響もあり、家族登録制(≒戸籍制度)の確固たる伝統の下にあり続けてきた、ということです。
 これに対し、このあたりまで来て私は瞠目したのですが、下掲から分かるように、アングロサクソン諸国(できそこないのアングロサクソン国である米国を含む)は、家族登録制の伝統を全く持たないようなのです。

 「<米国>、<英国>、オーストラリアでは国家による家族登録を行わない伝統<(注15)>を持ち、<朝鮮半島では支那由来の戸籍制度が一貫して維持されてきたところ、北朝鮮に続き、>大韓民国も2008年限りで廃止したため、戸籍のような家族単位の国民登録制度は存在しない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%B1%8D 前掲

 (注15)この伝統がいつからのものなのか、つまり、かつて(狭義の)欧州諸国のそれに類似した家族登録制が英国にもあったのか、スコットランドや(北)アイルランドではどうだったのかまでは分からなかった。

 現在の米国では、「結婚などの登録も役所の住民登録で済まされる」るところ、現在の英国に至っては、住民登録制度すらありません。
 実に、「住居を定めると情報が自動的にその住所を管轄する地方行政庁・・・に登録され」るだけ(注16)
http://www.uk.emb-japan.go.jp/jp/shien/qa5.html
、という徹底ぶりです。

 (注16)そう言えば、1988年に一年間ロンドンに在住した折、全く地方行政庁と関わりを持つことはなかった。そういうわけで、身分証明書めいたものをもらった記憶もないのだが、英国のNHSではどんな人でも平等に扱うのか、(パスポートの提示くらいは求められたのだろうが、)近所の医者に所に行って診断を受けた折、(薬が処方されなかったこともあり、)タダだったように思う。

 個人主義/自然宗教のアングロサクソン文明と集団主義/キリスト教の欧州文明が全く異なったものであることは、この点一つとっても明らかではないでしょうか。

(続く)