太田述正コラム#6743(2014.2.7)
<個人の出現(その7)>(2014.5.25公開)

 サイデントップにとっては、堕落は、人間の様々な弱さを認めることで人間の作因についての諸議論に現実主義を導入する諸手段なのだ。
 しかし、堕落は、より深淵にしてより暗い意味を持っている。
 サイデントップが叙述するように、堕落は、「恩寵を通じてのみ人間達は道徳的になる」という、キリスト教の伝統の中で強調されている点を表現している。
 「正しい(upright)意思」は、単に理性だけでなく、「個人の諸意思の<神の>より高い意思」との連合(union)」を必要とする、というのだ。
 理性は、「それが啓示によって示された道徳の法に従った場合においてのみ「正しい(right)理性」たる地位を獲得したのである」、と。
 仮に、全能で無制約の一神教的な神が、作因という革命的な観念を導入したのであるとしても、堕落と原罪なるキリスト教の概念は、人間の作因を非常に異なった形で<我々から>見られるようにした。
 (ユダヤ教での物語は異なった響きを持つけれど、)アダムとイヴの物語は、自由意思は腐敗しており、また、人間の道徳的責任には制約がある、というお話だ。
 それは、人間達が、自分達自身では善いことはできないということを受け容れる、ということなのだ。
 この人間の本性に係る暗いヴィジョンが真に挑戦を受けるのは啓蒙主義の到来を待たなければならなかった。
 <すなわち、>神が定めた秩序の外においてのみ、人間の作因に係る真に革命的なヴィジョンを発展させることができたのだ。
 このヴィジョンは、人間の意思は、他の、より優位なる作因<、つまり、神なる作因、>に依存しない、というものだった。
 <もとより、>17世紀以降に発展したところの、個人と作因なる概念が、キリスト教の諸観念を利用したものであることは確かだ。
 しかし、サイデントップはそのことを認めないけれど、<上記ヴィジョン>が、それらを、異なった形へと変貌させた<こともまた確かなのだ>。
 「最近の数世紀における歴史の記述の特徴は、近代と古代世界との間の道徳的かつ知的距離を極小化すると同時に、近代欧州と中世との間の道徳的かつ知的距離を最大化するという傾向にある」、とサイデントップは叙述する。
 <しかし、>私は、「何世紀」にもわたる「歴史の記述の特徴」について語ることに余り意味があるとは思えない。
 最近の歴史編集の諸特徴の一つが<サイデントップの叙述するところとは>正反対の、中世と近代との違いを不明瞭化する傾向、にあることを踏まえると、私は、一層そう思うのだ。
 『個人の発明』は、この<最近の>修正主義的趨勢とかなりの部分重なっている。
 問題は、これまでのアプローチを修正するにあたって、サイデントップが、古代世界を過度に異質のものとするとともに、<中世と比較しての、>近代の独特さから目を背け過ぎていることだ。」(B)

3 終わりに

 私が、このシリーズの途中でコメントを基本的に差し挟まなかったのは、2人の書評子が、私に代わって、イギリス人の目から見た内在的批判を十分過ぎるほどサイデントップに対して浴びせてくれているからです。
 この2人の書評子から共通して透けて見えてくるのは、いかにもイギリス人的な、キリスト教、ひいては欧州文明に対する不信であり、更に言えば侮蔑です。
 (これは、彼らの、インチキ・イギリス人であるサイデントップに対する不信、侮蔑を同時に意味します。)
 しかし、太田コラムの熱心な読者なら私が言いたことの予想がつくと思うのですが、彼らは後一歩のことで、いわば寸止めしてホンネの開陳を避けている、というのが私の見立てです。
 というのも、個人は近代になって広義(地理的意味)での欧州に出現したのではなく、イギリスに、「最初」から存在していたからであり、狭義での欧州がイギリス(アングロサクソン)文明によって触発されて、プロト欧州文明(カトリック文明)から欧州文明(キリスト教文明)へと脱皮した時に、個人もまた、初めて狭義での欧州に出現した、という認識をこの2人は抱いているはずである、と私は見ているからです。
 果たしてこのような私の見立ては本当に正しいのでしょうか。
 その答えは、未完のままになっている、「個人主義の起源」シリーズを完結させることで、出すつもりです。
 
(完)