太田述正コラム#6733(2014.2.2)
<吉田松陰と山県有朋(その2)>(2014.5.20公開)

3 山県有朋の安全保障戦略

 伊藤博文も松陰の「高弟」であったわけですが、「松陰<は>伊藤のことを「周旋家」と評<するとともに>・・・、「・・・好んで吾に従ひて遊ぶ。才劣り学おさな・・・きも、質直にして華なし。・・・」・・・と<しており、>・・・伊藤は過激な精神主義者松陰よりも、冷静に日本の行く末を熟慮し、そのための政略を重んじた長井・・・雅楽・・・のほうに共感を示している・・・。」(コラム#4772)という次第であり、伊藤が自分についてこんな評価をした松陰に私淑していなかったことはほぼ間違いないでしょう。
 いずれにせよ、伊藤の安全保障戦略は、松陰の他愛ない「戦略」とは似ても似つかないところの、私の言う横井小楠コンセンサスに基づいた緻密なものであったことを、既に(上記コラムを含むところの)「『伊藤博文 知の政治家』を読む」シリーズ中のコラム#4788で明らかにしたところです。

 これに対し、山県有朋は、「松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた。また、生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていた」
http://www.yoshida-shoin.com/monka/yamagata.html
というのですから、文字通り、松陰に私淑していたと言ってよいでしょう。
 しかし、その山県の安全保障戦略は、一体、いかなるものであったでしょうか。

 コラム#5434で、村中朋之の論考から、
 「1889・・・年12月24日、・・・第一次山県内閣は発足した。翌<1890>年3月、山形は『外交政略論』を政府部内に配布し、・・・「利益線」・・・という概念を用い、朝鮮への国防範囲の拡大を唱えた。・・・山県の「利益線」概念は、以後の日本の外交政策、すなわちアジアへの権勢拡大の端緒となったとともに、従来の日本の国防戦略の転換、すなわち侵攻する敵を自国の領土内で撃破するという「守勢戦略」からの転換の契機となった。この「利益線」は、山県自身により創りだされた概念ではない。これは山県が・・・1888・・・年の訪欧時に、ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz Von Stein 1815〜1890)・・・から教授された「利益疆域」を基に、井上毅の助力を得て作られたものであることが梅渓昇や加藤陽子らにより明らかにされている。」(コラム#5434)
を引用したところであり、山県の安全保障戦略は、シュタイン譲りであって松陰とは全く無関係であったことが窺えます。

 ここで一つ訂正をしておきたいと思います。
 同じコラムの中で、山県の1888年の建議『軍事意見書』を根拠に、私は、彼・・・は、私の言う、横井小楠コンセンサス(英国模範/反露)からズレていたため、同コンセンサスを共有していた者からすれば、英露両国のうち、英国に与すべきは当然であるというのに、山県は、東アジアにおいて英露両国に対して中立的な安全保障政策を追求しようとしたわけです」と記したのですが、これは上記『外交政略論』の全体を読んでいなかったための誤りでした。
 というのも、上記『外交政略論』の中で、山県は、次のように記しているからです。

 「蓋利益線を防護すること能はざるの国は其主権線を退守せんとするも、亦他国の援助に倚り纔かに侵害を免るる者にして、仍完全なる独立の邦国たることを望む可らざるなり。今夫れ我邦の現況は屹然自ら守るに足り、何れの邦国も敢て我が彊土を窮観するの念なかるべきは何人も疑を容れざる所なりと雖も、進で利益線を防護して以て自衛の計を固くするに至ては、不幸に全く前に異なる者として観ざることを得ず。
 我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り。西伯利<(シベリア)>鉄道は已に中央亜細亜に進み其数年を出ずして竣功するに及んで、露都を発し十数日にして馬に黒竜江を飲むべし。吾人は西伯利鉄道完成の日は即ち朝鮮に多事なるの時なることを忘る可らず。又朝鮮多事なるの時は即ち東洋に一大変動を生ずるの機なることを忘れ可らず。又朝鮮の独立は之を維持するに何等の保障あるか。此れ豈我が利益線に向て最も急劇なる刺衝を感ずる者に非ずや。・・・
 我邦の利害尤緊切なる者朝鮮国の中立是なり。明治八年の条約<(注4)>は各国に先立其独立を認めたり。爾来時に弛張ありと雖も亦線路を追はざるはなく、以て十八年に天津条約<(注5)>を成すに至れり。然るに朝鮮の独立は西伯利鉄道成るを告るの日と倶に薄氷の運に迫らんとす。朝鮮にして其独立を有つこと能はず、折げて安南<(ベトナム)>緬甸<(ビルマ)(注6)>の続とならば、東洋の上流は既に他人の占むる所となり、而して直接に其危険を受る者は日清両国とし、我が対馬諸島の主権線は頭上に刃を掛くるの勢を被らんとす。清国の近情を察するに蓋全力を用ゐて他人の占有<(注7)>を抗拒するの決意あるものの如し。従て又両国の間に天津条約を維持するは至難の情勢を生ぜり。蓋朝鮮の独立を保持せんとせば、天津条約の互に派兵を禁ずるの条款は正に其障碍を為す者なればなり。知らず将来の長策は果して天津条約を維持するに在るか、或は又更に一歩を進めて聯合保護の策に出て以て朝鮮をして公法上恒久中立の位置を有たしむべきか、是を今日の問題とす。」
http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/51423833.html

 (注4)明治8年(1975年)の江華島事件の後、明治9年(1976年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された日朝修好条規(Treaty of Ganghwa)を指していると思われる。同条約は、「朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を持つ独立国であることを明記したが、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項を内容とする」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F
 (注5)Convention of Tientsin「は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章の名をとって「李・伊藤条約」とも呼ばれる。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1885%E5%B9%B44%E6%9C%88)
 「甲申政変・・・とは、1884年12月4日・・・に朝鮮で起こった<親日・開化/対清独立派による>クーデター。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%94%B3%E6%94%BF%E5%A4%89
 (注6)1884〜85年の清仏戦争の結果、1885年6月天津条約(李・パトノール条約)でフランスが清に北ベトナムの領有を最終的に認めさせ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E4%BB%8F%E6%88%A6%E4%BA%89
かつ、1886年6月、英清ビルマ条約でイギリスが清にビルマの宗主権を認めさせた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC
ことを指す。
 (注7)対露安全保障上の理由から日本が軍隊を朝鮮半島に派遣することを指していると思われる。

 すなわち、首相となった後に山県が公式に表明した彼の安全保障戦略は、ロシアを最大の潜在敵国としたところの、当時の日本の指導層が共有していた横井小楠コンセンサスの枠内において周到に練り上げられた現実主義的な戦略であって、それは、いかなる意味においても、松陰の対外膨張論や非武装無抵抗論といった思い付き的戯言の影響など受けていなかった、と言えるのです。
 ただし、彼が、伊藤博文の推進した政党内閣の実現に反対した(コラム#4778)こと一つとっても、横井小楠コンセンサスの前提たる、自由民主主義の側に立って専制主義と対峙する、という考え方について、山県が、反対とまでは行かなくとも、十分納得していたとまでは言えそうにない点は押さえておく必要があります。

4 終わりに

 以上から、吉田松陰は彼の高弟達に影響を与えた思想など持ち合わせていなかった、いや、より限定的に申し上げるとして、吉田松陰は彼の高弟達の推進した安全保障戦略に影響を与えた思想など持ち合わせていなかった、と断定してよさそうです。

(完)