太田述正コラム#6695(2014.1.14)
<またもや人間主義について(その9)>(2014.5.1公開)

 これら全てのことは、価値を巡る本当の(genuine)論議の存在を否定するものではないし、この種の諸論議が常に意味がないと言うのでもない。
 確かに、国内政治においては、諸価値を巡るあからさまな諸論議が呼び物になるのであって、ここでは、妊娠中絶や同性愛の領域において、グリーンの主張はより理屈に合うのかもしれない。・・・
 しかし、国内領域においても、人々が諸価値を巡って闘うからと言って、それは、諸価値が主要な動機(mover)であることを意味しない。
 諸紛争は、少なくとも同程度のエネルギーを、それまでの部族間の諸緊張関係・・自分の集団がもう一つの集団から脅威を受けているという感覚を含むところの、従ってゲームはゼロサムであるという諸緊張関係・・から引き出しているかもしれないからだ。・・・
 ある意味では、自分達の道徳的諸直観に従って件の男を死へと懲罰することを回避する人々は、単に、自分達がそのために非難されるであろう一人の死よりも、自分達が非難されないであろう5人の死をもたらすことの方を選んだ、というだけのことかもしれない。
 <こんなものは、>道徳的勇気の横顔とは言えなさそうだ!
 だから、グリーンが一束の感情的諸直観次第ではないところの、一つの道徳哲学へと我々を誘いたいようである理由が分かろうというものだ。
 それは、我々が自然淘汰の道徳的議題を超越することを助けてくれるとの希望を提供する。
 しかし、この使命を鼓吹したところの、人間の本性観がいかに暗いものであったとしても、私は、それが十分に暗くないことを恐れている。
 もし、グリーンが、人々をして、自分達の道徳的諸主張を高度に道理をわきまえた(reasonable)言語で言い表させることが彼らを高度に道理をわきまえた存在にすると考えているのだとすれば、私は、彼は、我々の内なる動物達が自然淘汰の議題を追求するにあたってのずる賢さと容赦なさを過小評価していると思う。
 我々は、それがいかなる言語によって形作られていても、道徳的論議(discourse)を歪めてしまい、しかも、都合よくも、歪めてしまっていることに気付かないように設計されているように見える。
 だから、救済に至る最初の一歩は、より自身について知る(become more self-aware)ことかもしれないのだ。・・・
 私は、単に、すべての主要諸宗教に啓発的な瞑想的諸伝統がある・・これがあることは間違いない・・、と言いたいだけではない。・・・
 <その証拠に、>自分達の同胞達に対し、より部族的ではない見地から物事を見よ、他者の立場になってみよ、和解(accommodation)という非ゼロサム的展望(prospect)を探求せよ、と促す人々が<必ず>いる<ではないか>。・・・
 この種の全球的なメタ認識的(metacognitive)革命は、それが科学の助力を得たとしても困難な企てかもしれないし、間違いなく、それは、長く困難で単調な営為になることだろう。
 しかし、世界の諸部族に生来的である(indigenous)であるところの啓蒙の諸種を育むことは、全ての部族を功利主義へと改宗させようとすることよりも賭けとしてはマシなのだ。
 <しかし、>それは、より成功の可能性が高い上、成功した場合により効果的なのだ。」(D)

4 終わりに

 既に示唆していたように、ライトの結論は、私の考えと全く同じであって、人間主義化(但し、瞑想(座禅)による)の勧めである、ということがお分かりいただけたことと思います。
 そのライトが、人間の人間主義的生来性にもかかわらず、どうして部族/集団間の反目・・私の言う、一族郎党命主義(コラム#6319)に由来する反目・・が生じるのかについて、説明していないのは物足りません。
 ご承知のように、私は、「人間は、本来的には狩猟採集社会に適合的であったところの人間主義的な存在であったが、(狩猟採集社会に比べて、貧しく、栄養失調気味で、余暇がなく、権威・権力・富が少数に集中し、定着していて、不衛生で、人口過多で、戦争が多く、ストレスが多い)農業社会・・・ないし(本来の自然から疎外された)都市社会になったために、この人間主義的な本性が壊れてしまっている、という考え」である(コラム#5402)わけですが・・。
 より問題なのは、ライトは、グリーンの所説を批判する過程で、部族/集団間の反目のが必ずしも価値観/道徳観の相違に根差すものではない、と指摘しているところ、私に言わせれば、(敵味方を峻別する)一神教的価値観/道徳観、とりわけ(救世主/終末論思想を伴う)アブラハム系宗教的価値観/道徳観を共有している集団の間では、反目が先鋭化しがちである・・その典型例がパレスティナ紛争・・、ということからライトが目を逸らせてしまっていることです。
 これでは、そもそも瞑想(座禅)が、このような、人間主義の回復・発現を妨げているところの、(人間主義の回復・発現を意図しつつ誤った方法論を提示し、それを人々に押し付けてきた)アブラハム系宗教や古典ギリシャの哲学王率いる全体主義的理想社会観や春秋戦国時代の支那で生まれた儒教といった桎梏から人間を解放するためのものであることに、ライトが気付くはずもないでしょう。
 (なお、グリーンの所説に対する批判は、既に随所で行ってきたのでここでは繰り返しません。)
 
(完)