太田述正コラム#6677(2014.1.5)
<デール・カーネギーの生涯と主張(その2)>(2014.4.22公開)

  イ 試行錯誤

 「彼は3年生の時に<大学を>止めてデンヴァー(Denver)行きの列車に飛び乗った。
 デンヴァーではネブラスカ州西部で通信講座を売る職を見つけた。
 「私は悲愴なまでに成功したいと思っていた」とカーネギーは記している。
 彼は、愚かにも、金鉱開発話でカネを失った上に、「殆んど」通信講座を売ることができなかった。
 彼は、これは、自分の技量のせいではなく、製品自体の欠陥のせいだと自分で判断した。
 そこで、彼は製品を切り替えることとし、アーマー(Armour)社の肉を売り始めた。
 彼はこの会社の新人スターとなり、最終的には銀行口座を開けるほど稼いだ。
 缶詰肉の世界でわずかばかりの成功を収めつつあるまさにこの時期に、カーネギーは自分が飽きてしまったのでよりでっかいことを目指そうと決断した。
 彼は、「自分の人生の進路」を変えるために陣をたたんでニューヨークに行く、と両親に宣言した。
 俳優になるのだ、と。
 米演劇芸術アカデミー(American Academy of Dramatic Arts)での6ヵ月の後、カーネギーは「サーカスのポリー(Polly of the Circus)」と呼ばれる移動劇の端役を手に入れた。
 この旅で相部屋だった男は、後に、「彼が会話の才能があったとは言えない」と説明している。
 「彼にはそんな才能はなかった。彼<の会話>は演説<みたい>だった。」と。
 この劇団が旅を止め、他に俳優の仕事が回ってこなくなると、カーネギーは、ニューヨークで、短期間、中古車の販売員の仕事をやった。
 彼ははったり(bluster)をかまし続けた。
 「私は、トラックがどうして走るのか知らなかったし、知りたいとも思わなかった」と彼は言っている。
 彼は、何度もクビになった。
 ニューヨーク市内全域の中古車販売場における自分の雄弁術的技量の失敗をものともせず、カーネギーは、コロンビア大学とニューヨーク大学での教職ポストに応募したが、容赦なく拒絶された。
 最終的に、彼は、同市の125番街にあった最も小さいYMCAに対し、彼をしゃべらせるよう説得することに成功した。
 彼は、すぐに、自分の生徒達が「雄弁家になりたいのではなく仕事で成功することを求めていること」に気づいた。
 そこで、彼は、学生の参加に依存するメソッドを開発した。
 彼らに、自分達が大好きなことについて語るように求めたのだ。
 1914年には、YMCAグループは彼を正当に扱うようになった。
 彼は、カーネギー・ホールに小さい事務所を借りられるだけの稼ぎを得るようになり、彼の諸授業の諸主題・・大変なハンデを克服した偉大な人々や運命を逆転させた敗者達といった元気を与えるプロフィール群・・を支える雑誌記事を書き始めた。
 彼は、大部分の米国人達が、自分達の仕事が大嫌いで、自分達がもっと大きなことへと運命付けられている、と感じていることを認識した。
 この頃、彼は自分の両親に対して、「カネをどうやってつくるのか分かったよ。額に汗して働いたってダメなんだ」と書き送っている。
 また、明らかに、カネをつくるには、正直に本当ばかりを伝えてもダメなのだった。
 彼の1915年の本である『スピーチの技術(The Art of Public Speaking)』は、うまくいくまで装い続けよ(fake)、と教えた。
 自信満々で知徳あるような印象を与えよ、ただし、うぬぼれているようには見えないようにせよ(Project confidence and inner strength, but try not to seem too conceited.)、と・・・
 カーネギーの上昇軌道は、第一次世界大戦で中断した。
 彼は、徴兵されたのだが、ミズーリ州時代に農場での事故で指を一本失っていたために、ロングアイルランド州での事務的な仕事へと島流しになった。
 彼は、1919年に除隊になると、キャリアを再開しようと試みた・・・。・・・
 ・・・1920年代初頭における欧州各地でのスピーチ旅行の後、カーネギーは、新たな使命感でもって米国での成功の座(citadel)へと立ち戻った。」(E)

 「<カーネギーが、>中西部を牛肉と豚肉を売って縦横に行き来した時に身に着けた諸習慣は以下の通りだ。
 「微笑みながら、他人に関心を持ち、議論を避け、人々の名前を憶え、他人に自分自身のことについて語るよう促し、良い聞き手となり、激励と称賛を挟み、自分の考えを劇的に表明し、他人をして自分が重要であると感じさせる。」(B)

(続く)