太田述正コラム#6635(2013.12.15)
<日本の暴力団(その10)>(2014.4.1公開)

 「『平成23年版警察白書』によれば、刑法犯の検挙率は2010年でわずか31.4%です。発生した事件の3分の1さえ犯人を検挙していません。
 これまでの最低は2001年の19.8%です(実に検挙できたのは5分の1以下)。それに比べれば最近はいくぶんか持ち直してはいますが、たとえば1987年の刑法犯検挙率は73.5%と、きわめて高いものでした。・・・
 それでも、2010年、殺人事犯だけの検挙率をみると、96.4%なのだそうです。・・・
 前出、工藤會の木村博幹事長・・・は言います。
 「戦後まもなく10万人少々だった警察組織も、現在は約29万人、3倍増です。・・・<他方、>消防を除く他の部門は20年前から減少傾向にあります・・・。・・・
 ただ暴対法が施行された92年から99年までの8年間は、地方警察官の定数がほぼ増減なく固定されています。増加のきっかけになったのは99年10月に起きた『桶川ストーカー殺人事件』でした・・・
 この事件を受け、警察庁は・・・それまでカウントしていなかった軽微な犯罪を統計に計上するようになりました。こうなると犯罪件数は増えますが、検挙率が下がるのは当然のことです。」(151〜152.155〜156)

→プロの犯罪集団だけあって、暴力団は犯罪/警察事情をよく勉強していますね。(太田)

 「しかし警察庁は・・・認知件数の増加、検挙率の低下はあまりに不体裁とすぐ考えを改めたのでしょう。認知件数はその後急激に減少し、・・・検挙率は・・・上向いて来ましたが、なんのことはない、桶川事件以前と同様、刑法犯の認知件数を減らしたうえでの検挙率の(情けない)アップなのです。・・・
 <いずれにせよ、一時、検挙率低下を「演出」することで、>行政改革がいわれる時代に警察官だけが増え<てきています。>・・・

→数字のマッチポンプによって他省庁や地方公共団体の鼻を明かして警察だけが職員数を増やし、しかもその数を殆んど減らされていないというのですから、警察について、悪い意味で役所として有能であると思われるかもしれませんが、私は、警察が国と地方の二足の草鞋を履いていることで国、地方のいずれによる監督も実質的に免れていることと、国家及び地方の公安委員会制度が警察の隠れ蓑として「機能」していることとが、警察官僚の「専横」を許しているだけではないか、と考えています。
 自衛官を含む防衛省職員数(予備自衛官を含まず)は約25万人
http://www.mod.go.jp/j/profile/mod_sdf/kousei/
に過ぎず、このように警察組織が軍事組織よりも大きい国は、恐らく日本の他には世界に殆んど存在しないのではないでしょうか。(太田)

 福岡県・・・の地元の暴力団幹部は言います。
 「FBI・・・によると、アメリカのマフィアは約3000人だそうです。一方で、日本のヤクザは約7万人とされています。それなのになぜ国際的に、日本のほうが治安がよいと評価されているのか。われわれは積極的に治安を脅かそうとするものではありません。むしろ、われわれなりに安定させようと努めているつもりです」・・・
 <かつてはそうだったかもしれませんが、>暴力団<が>変わりつつあることを警察は理解していません。
 <つまり、依然として、>警察は暴力団を社会悪などと感じていないのです。<それどころか、>言うことを聞く暴力団は存在した方が便利<だと現在でも思っている>のです。・・・
 与力や同心は博徒やテキヤの犯罪にはおおよそ目をつぶりました。そのかわり彼らをある種の使用人として使い、情報集めをさせました。取り締まり当局がヤクザ(暴力団)を犯罪情報の収集や捜査に使うことは明治期も戦前も戦後も暴対法施行以降も連綿と続きました。・・・
 こういうことを<いまだに続け>ていては、警察に捜査力などつく道理がありません。・・・
 <19>88年に<日本は>「麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約」を採択し、89年同条約に署名、91年には条約の批准に必要な国内法整備の一環として麻薬特例法を制定しました。
 この特例法には薬物収益に関わるマネーロンダリングの処罰や薬物犯罪収益の没収や追徴など、それまでの暴力団対策にはなかった規定が導入され、それが暴力団対策をも変えていったのです。

→どうしてこれが日本の暴力団対策の転機になったのか、(そもそも暴力団が麻薬取引に従事しないタテマエをとっていることもさることながら、)記述が舌足らずでよく飲み込めません。(太田)

 80年代後半のバブル経済期、暴力団の首脳部は地上げや株取引で膨大な資金を掴みました。そればかりか、山口組から新たに一和会が分裂、独立し、両派は激しく抗争を繰り返しました(その後一和会は消滅)。

→どうして暴力団対策の転機になったのかの続きであるわけですが、この前段は、暴力団のみならず、ありとあらゆる人々がバブルで儲けていたことから、やはり殆んど理解できません。
 後段は、理由として頷けるものの、5年で抗争は終わった(注16)のですから、若干迫力不足であると言えるでしょう。
 やはり、前に触れたように、警察が、天下り先拡大のためにこの抗争等を利用した可能性が高い、というべきでしょう。(太田)

 (注16)「山口組内の四代目跡目問題で山本広擁立に関わった陣営が、1984年6月の竹中正久四代目山口組組長襲名を機会に山口組を脱退。山本を会長として「一和会」を結成した。分裂当初は7000人対6000人と山口組より数で優勢であったものの、切り崩しにより次第に劣勢に立たされていった。これを挽回するために竹中暗殺を計画し、竹中行きつけのマンションに部屋を借りるなど周到な準備を行って、1985年1月、竹中と、若頭・中山勝正、警護役の若中・南力の3名を射殺し、山口組の序列1位、2位を一挙に倒し衝撃を与えた。しかし、このことが逆に山口組側からの激しい報復を招くこととなった。山口組との抗争(山一抗争)の長期化で勢力は激減し、1988年5月には、一和会序列2位の副会長兼理事長・加茂田重政が引退して加茂田組を解散。会長の山本宅に爆発物を用いた攻撃やダンプトラックが突入するなどが行われたことなどもあって、それから数ヵ月のうちに最高幹部のほとんどが会を脱退するに至った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%92%8C%E4%BC%9A
 脱線:防衛庁(当時)のキャリア等の間で、私の同期の守屋(後、防衛事務次官)の容貌、体躯が竹中似であることが、よく笑いの種になっていたものだ。
 竹中正久(1933〜85年)については、下掲参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E4%B9%85
http://nicoviewer.net/sm17158088
 守屋武昌(1944年〜)については、下掲参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E5%B1%8B%E6%AD%A6%E6%98%8C
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%AE%88%E5%B1%8B%E6%AD%A6%E6%98%8C#mode%3Ddetail%26index%3D34%26st%3D918

 警察庁は暴力団をそのまま放置することもできず、暴力団対策法案をつくり、91年に制定、92年3月から施行しました。」(151〜152.155〜157、159〜165)

(続く)