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太田述正コラム#6629(2013.12.12)
<日本の暴力団(その7)>(2014.3.29公開)

 「<そもそも、>民主国家であるはずの日本<で、暴力団が>私的な暴力を持つことはルール違反なのです。
 そして歴史的にも60年安保や三井三池争議など、ほとんどの場合、暴力団が反動的な支配層の側に与し、一般庶民に流血の惨事を強いてきたことを忘れてもらっては困ります。・・・」(88)

→溝口の正体見たり、という箇所ですね。
 (暴力団が)「一般庶民に流血の惨事を強いてきた」については、60年安保では暴力団ならぬ右翼についての下掲の挿話くらいしかありません。
 「1960年・・・5月19日に衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89
 三井三池争議については、下掲のように、暴力団による流血の惨事が少なくとも1件はあったようですが・・。
 「1960年・・・。3月25日にはピケを張っていた三池労組の組合員・久保清が暴力団員に刺殺され<た>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E4%B8%89%E6%B1%A0%E4%BA%89%E8%AD%B0
 「一般庶民」については、60年安保では「ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、自著『対日工作の回想』のなかで、ミハイル・スースロフ政治局員の指導のもと、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもこれらの勢力がソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取り合っていたと記述している」こと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89 前掲
が端的に示しているように、赤露に使嗾され、或いは資金提供を受けた人々が「一般庶民」だとは噴飯ものです。
 また、「反動的な支配層」については、三井三池争議では、「次第にエネルギー源は石炭から石油へと変化し、石炭需要が落ち込みを見せ始めていたことから、・・・経営合理化のために・・・炭鉱労働者」の数を減らさざるをえなくなっていたところの、三井鉱山が反動的なのではなく、「三池炭鉱を来るべき社会主義革命の拠点と考え<た>・・・大牟田市出身で三池炭鉱ともゆかりの深い九州大学教授の向坂逸郎が、・・・『資本論』の教育を通じて戦闘的な活動家の育成を図っ」た
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E4%B8%89%E6%B1%A0%E4%BA%89%E8%AD%B0 前掲
結果、洗脳されて赤露の手先化し、合理化反対を叫んだ炭鉱労働者達こそ「反動」の最たるものだったのですからね。
 60年安保でも三井三池争議でも政府や会社の方針に反対した側がいかに「反動的」であったかは、現在、(日本を米国の属国にしている)安保条約を(日本を引き続き被占領状態に置いていた)旧安保条約に戻そうという声など皆無であること、また、零細亜炭鉱を除けば、北海道以外(、すなわち、本州、四国、九州(含む沖縄))において炭鉱が消滅している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%B1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
こと、が紛うことなく証明しています。
 なお、福岡県で、労働争議に関しても、このような、極めて特異な三井三池争議が起こっていることは興味深いものがあります。(太田)

 「<20>12年3月31日、・・・五人<の著名人>が、北九州市小倉に出張り、約200人を集めて・・・暴排・・・反対集会「憲法のメルトダウン--進行する排除社会・消えゆく法の下の平等--」を開きました。・・・
 集会の受け皿になったのは地元の弁護士たち・・・ですが、実質的な受け皿は北九州市を根城にする暴力団工藤會です。パネリストには評論家の田原総一朗のほか、著述業の宮崎学、須田慎一郎などが顔を揃えました。・・・
 パネラー・・・たちはボランティアではなく、・・・<工藤會が出所の>然るべき謝礼を受け取る後援者だった<の>です。
 <パネラーたちに直接講演料を支払ったのは弁護士達でしたが・・。>・・・
 暴力団からお金をもらって暴排条例の反対もないだろうと私は思います。」(89〜90)

→このくだりは、これまで読み進めてきた中では、溝口による、最もまっとうな正論です。
 なお、田原(1934年〜。早大卒)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E7%B7%8F%E4%B8%80%E6%9C%97
や須田(1961年〜。日大卒)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%94%B0%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E
は論外ですが、山崎(1945年〜。早大中退)には若干同情の余地があります。
 彼は「被差別部落の出身<であるところの、>・・・京都伏見のヤクザ寺村組の初代組長を父に、大阪釜ヶ崎の博徒の娘を母に持った」人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%AD%A6
だからです。(太田)
 
(続く)

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